権五郎神社。祭神鎌倉権五郎景政と岡部六彌太忠澄
権五郎神社の概要
権五郎神社は、飯能市南にある神社です。権五郎神社の創建年代等は不詳ながら、当地で疫病が流行した際に御霊明神社を勧請したという伝えと、氏子落合氏の先祖が鎌倉郡域で数多く祀られている御霊明神社を勧請したという伝えとが残されているそうです。江戸期には御霊明神社の(祭神である)鎌倉権五郎景政と、岡部六彌太忠澄の2神が合殿で祀られ、慶安年間(1648-1652)には幕府より社領3石の御朱印状を受領していました。明治7年村社に列格、明治45年字畑中の天神社を合祀しています。
社号 | 権五郎神社 |
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祭神 | 鎌倉権五郎景政、菅原道真 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社・疱瘡社、少彦名社・山祇社 |
祭日 | 秋祭9月下旬 |
住所 | 飯能市大字南251 |
備考 | - |
権五郎神社の由緒
権五郎神社の創建年代等は不詳ながら、当地で疫病が流行した際に御霊明神社を勧請したという伝えと、氏子落合氏の先祖が鎌倉郡域で数多く祀られている御霊明神社を勧請したという伝えとが残されているそうです。江戸期には御霊明神社の(祭神である)鎌倉権五郎景政と、岡部六彌太忠澄の2神が合殿で祀られ、慶安年間(1648-1652)には幕府より社領3石の御朱印状を受領していました。明治7年村社に列格、明治45年字畑中の天神社を合祀しています。
飯能市史資料編による権五郎神社の由緒
権五郎神社(大字南字栃屋谷252-2)
創建年月日は、はっきりしない。
明細帳によれば、古老の言い伝えに権五郎景政の霊を祭るという。
明治7年村社に列格し、同45年5月29日同字畑ヶ中の天神社の祭神菅原道真を合祀した。(飯能市史資料編より)
新編武蔵風土記稿による権五郎神社の由緒
(中澤組)
御霊明神社
鎌倉權五郎景政、岡部六彌太忠澄の靈を合殿に祀れり、社地杉樹繁茂生す、社前に鳥居を立、慶安年中三石の御朱印を附せらる、神職落合飛騨、吉田家の配下なり、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による権五郎神社の由緒
権五郎神社<飯能市南二五一(南字栃屋ケ谷)>
当地は秩父山地の入間川支流中藤川の水源に当たる谷あいの地で、江戸期には耕作の場所が少なかったため、当地の生産物で四ヵ月を暮らし、あとは他所との交易により過ごした。それゆえ、村人は炭を焼き、薪材を伐り出し、養蚕を行い絹を織ったという。
当社は中藤川の水源である中沢川と栃屋谷川の落ち合いに鎮座している。創立は、往時当地に疫病が発生し、多くの村人が悩み苦しんだ折、これを鎮めんがため御霊明神社を勧請したという説と、氏子落合氏の先祖が鎌倉から勧請したとの二説が伝えられている。
祭神は、後三年の役の折、金沢柵で右目を射られながらも敵を射殺した武勇を伝える鎌倉権五郎景政と、鎌倉期当地の領主であった岡部六弥太忠澄の二柱を祀るが、『風土記稿』には合殿とあり、神体は白幣となっている。また、慶安年中に朱印三石を受けている。
現在内陣には、鏡が三面(市指定文化財)安置されており、このうち二面には十一面観音が鑞付けされ、裏面にはそれぞれ松ヶ枝双雀、菊まがき双雀、他の一面には、菊花双雀の模様が刻まれている。
祀職は氏子の落合家が当社の勧請にかかわることから長く社家を務め、江戸後期には吉田家の支配を受けていた。明治七年に村社となり、同四五年には字畑中の天神社を合祀した。(「埼玉の神社」より)
権五郎神社所蔵の文化財
- 菊花双雀鏡(鎌倉初期・市指定文化財)
- 菊籬双雀鏡(室町初期・市指定文化財)
権五郎神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」