借宿神社。日本武尊が仮宿した地に社を建立
借宿神社の概要
借宿神社は、飯能市長沢にある神社です。借宿神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が当地で仮宿したことから、日本武尊を祀る社を建立し借宿と称したと伝えられます。また、「高山案内記(安政2年1856年)」では、流星が入間野の臥龍山へ飛んで行く際に、当社で休んだところから借宿明神と呼ぶようになったと伝えています。長沢を含む下吾野郷の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、大正6年長沢字八徳の無格社二所神社を合祀しています。
社号 | 借宿神社 |
---|---|
祭神 | 日本武尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊 |
相殿 | - |
境内社 | 三峰社・猪狩社、本殿内(金毘羅大権現、正一位稲荷大神、山王神社、天満天神宮、牛頭天王宮、山神宮、疱瘡神、熊野大権現) |
祭日 | 例祭10月9日、春季祭4月9日 |
住所 | 飯能市大字長沢6 |
備考 | - |
借宿神社の由緒
借宿神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が当地で仮宿したことから、日本武尊を祀る社を建立し借宿と称したと伝えられます。また、「高山案内記(安政2年1856年)」では、流星が入間野の臥龍山へ飛んで行く際に、当社で休んだところから借宿明神と呼ぶようになったと伝えています。長沢を含む下吾野郷の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、大正6年長沢字八徳の無格社二所神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による借宿神社の由緒
(長澤村)
借屋戸社
社傳に往古日本武尊東夷征伐の時、この所にかりやどしたまふ故に、日本武尊を祀りて借屋戸明神と稱せりと云、神體圓鏡二つ、各五寸八分、銘に借宿大明神、願主道久、武州高麗郡我野郷之内長澤村、永正十二年乙亥二月吉辰とあり、二面とも銘同じ、永正十二年の棟札に、大旦那三田平朝臣政定とあり、例祭九月九日、下我野郷五ヶ村の鎮守なり、神職加藤蔵人吉田家の配下なり、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による借宿神社の由緒
借宿神社<飯能市長沢五(長沢字馬場)>
当社は下吾野総社といわれ、鎮座地は、吾野方面から越生、毛呂山方面に抜ける峠道の入り口にある。ここは往古から人々の往来がある所で、口碑にも古くから旅人の道中安全祈願が行われたとある。
創建にかかわる伝説には、『風土記稿』に、日本武尊が当地で一夜の宿を乞い、籠もられたことから社を建立し、「借宿」と名付けたとある。また、安政二年の『高山案内記』には、流星が入間野の臥龍山へ飛んで行く途中、最初に東山麓の長沢宮、つまり当社に休んだところから、ここを借宿明神と呼ぶという流星伝説がある。なお、星はここから更に鳩と化して飛んだという。
内陣には、金幣と神鏡二枚が奉安されている。これらには、いずれも年紀があり金幣幣帛には宝暦二年、神鏡台座には永正一二年、安永八年の銘がある。
造営記録としては、弘化四年の棟札裏面の書き付けに「奉再建借宿御所大明神 文永拾弐年六月二日」とある。また元和五年には、鳥居が新築されている。
祀職は、明治の初めまで吉田家の支配を受けていた加藤家が務め、天保五年の棟札には「吉田殿直門人」とあり、日本武尊・大己貴尊・少彦名尊を祀り、祭祀を行っていた。現在は当地の大野武平が奉仕している。(「埼玉の神社」より)
飯能市史資料編による借宿神社の由緒
創建年月日は、はっきりしない。新風土記によれば、社伝として「往古、日本武尊、東征の時、このところにかりやどしたまふ故、この尊を祀りて、借宿明神と称せり」という。なお神鏡二つは各17.6cmあり、その銘に「借宿大明神願主道久、武州高麗郡我野郷之内長沢村 永正十二年乙亥十二月吉辰」とある。
明細帳によれば再建の棟札があるが、年号等の文字削り跡があり判読しがたいとしるす。あるいは、300年ほど前かともいう。明治5年村社に列した。大正6年長沢字八徳の無格社二所神社を合祀した。(飯能市史資料編より)
借宿神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」