下名栗諏訪神社。中西のお諏訪様、県指定無形民俗文化財の獅子舞
下名栗諏訪神社の概要
下名栗諏訪神社は、飯能市下名栗にある神社です。下名栗諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、正和3年(1314)の創建と伝えられています。江戸期には下名栗村の鎮守として祀られ、江戸時代後半には獅子舞が高水山常福院から伝授され、獅子舞は埼玉県無形民俗文化財に指定されています。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 大祭8月25日に近い日曜日 |
住所 | 飯能市大字下名栗1049 |
備考 | - |
下名栗諏訪神社の由緒
下名栗諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、正和3年(1314)の創建と伝えられています。江戸期には下名栗村の鎮守として祀られ、江戸時代後半には獅子舞が高水山常福院から伝授され、獅子舞は埼玉県無形民俗文化財に指定されています。
境内掲示による下名栗諏訪神社の由緒
下名栗諏訪神社
字中西にあることから、「中西のお諏訪様」と呼ばれており、下名栗の鎮守です。祭神は建御名方命、祭日は八月二十五日ですが、現在は二十五日に近い日曜日に、獅子舞保存会により獅子舞が奉納されています。前日のヨイマチにはソロイ(揃い)という総稽古が祭日と同様に行われています。
この獅子舞は、風流獅子と呼ばれる一人立ちで、演じ手が頭に獅子頭をかぶり、三人一組で舞うことから三匹獅子舞と分類されています。
舞は、庭場いっぱいに動き回るスピード感あふれるダイナミックなもので、真剣を使う「白刃」の演目での太刀遣いの所作などに典型的に現れています。昭和六十二年には県指定無形民俗文化財となりました。
獅子舞は、現在の青梅市成木の高水山常福院から伝授されました。獅子頭には、文化五年(一八〇八)に造立とあるため、この頃より習い始めたと考えられ、正式に伝授が認められたのは天保十四年(一八四三)に秘伝書「日本獅子舞之由来」が与えられた時と考えられています。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による下名栗諏訪神社の由緒
(下名栗村)
諏訪社
小名随量にあり、年貢地にて村持村中の鎮守なり、例祭七月廿五日、
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守護寺
南泉山教學院と號す、本山修験、入間郡越生郷山本坊配下にて、年貢地にあり、 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による下名栗諏訪神社の由緒
諏訪神社<名栗村下名栗一〇四九(下名栗字隨量原)>
当地には、二又尾で討たれたという畠山重忠が一時有馬山に身を隠した話や、新田義貞の子義宗が村に忍んだ話など、敗将の隠れ里伝説が残っている。これは、この村の周囲が深い山であるため、古くからあまり人目につかぬ所であったことを物語っている。当地においては、土地が狭いため耕作地が少なく、わずかに開けた畑も下畑でしかも日照りや猪鹿の害が大きかったため収穫も少なく、村も小村であった。村内には、各耕地に社があり、それらの多くが小祠である。
当社もこの中の一つで随量耕地に鎮座し、『風土記稿』には「村中の鎮守」と書かれている。社記によると創祀は「人皇九五代花園天皇の御代正和三年鎮座」と伝えているが、おそらく当地に住み着き狩猟生活を行っていた人々が豊猟を祈って、信州の諏訪神社から勧請したものと思われる。
祭神は建御名方命で、内陣には白幣を奉安している。
祀職は、明治以降上名栗の枝久保家が奉仕するところとなったが、神仏分離までは当地守護寺の修験が当社の祭祀を行っていた。また、この守護寺は南泉山教学院と号し、本山派修験越生山本坊の配下で、下名栗一帯の祭りを任されていた。なお、教学院は、「ホウエン」の屋号を保つ、現在の宮本家である。(「埼玉の神社」より)
下名栗諏訪神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」