征矢神社。六孫王基経が日本武尊と誉田別尊を祀った社
征矢神社の概要
征矢神社は、飯能市征矢町にある神社です。征矢神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東夷征伐のために下向した際、当地に千束の征矢を供えて戦勝祈願を行ったことに由来、その後天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経が、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられるといいます。江戸期には祖矢社と称し、矢颪・前ケ貫・岩淵三ケ村の鎮守社として祀られ、明治5年村社に列格、明治41年神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社の9社を合祀しています。
社号 | 征矢神社 |
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祭神 | 高皇産霊尊、日本武尊、誉田別尊、大日孁貴尊、応神天皇、素戔嗚尊、稲田姫尊、猿田彦尊、倉稲魂命、大宮ノ売命、大物主神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 飯能市征矢町26-1 |
備考 | - |
征矢神社の由緒
征矢神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東夷征伐のために下向した際、当地に千束の征矢を供えて戦勝祈願を行ったことに由来、その後天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経が、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられるといいます。江戸期には祖矢社と称し、矢颪・前ケ貫・岩淵三ケ村の鎮守社として祀られ、明治5年村社に列格、明治41年神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社の9社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による征矢神社の由緒
(前ヶ貫村)祖矢社
矢下風・前ヶ貫・岩淵三村の鎮守なり、岩淵村観喜寺持。(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による征矢神社の由緒
征矢神社<飯能市前ケ貫一六六(前ケ貫字砂ノ宮)
大字前ケ貫の字砂の宮に鎮座し、高皇産霊尊・日本武尊・誉田別尊の三神を祀る。一間社流造りの本殿を持ち、内陣には当社創建にかかわるとされる二筋の矢が納められている。
鎮座地の地名及び当社の別名を砂の宮というのは、昔は入間川が現在よりも西を流れており、当社の辺りはその河川敷で砂原となっていたことに由来し、現在でも当社周辺を掘ると砂が出てくる。
社伝によれば、日本武尊が東夷征伐のために下向した時、この地に千束の征矢を備えて戦勝祈願を行ったことに起源する社であるという。その後、天慶の乱に際して、将門追討のために下向した六孫王基経は、その旧跡を拝し、日本武尊と誉田別尊とを合わせ祀ったと伝えられる。
明治五年、神格制定に際し、古くから矢颪・前ケ貫・岩淵の三ヵ村の鎮守であり、また古社であることから村社となり、同四一年三月に前ケ貫字ヤハタの神明社・八幡神社・矢颪字前原の八坂神社・稲荷大神社・八幡大神社・字滝沢の多岐座波神社、字奥平の日吉神社・字中矢下の琴平神社、字秋津の秋津神社を合祀した。
祀職は、神仏分離までは、岩淵の真言宗福寿院観喜寺が別当を務めていたが、明治以降、神職は度々代わり、昭和五三年より宮原義雄が宮司となり、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による征矢神社の由緒
創建年月日は、不詳であるが、明細帳や神社誌によれば、古老の伝聞として、景行天皇の皇子、日本武尊が、東夷征伐のため下向の折、この地に千束の征矢を飾って、戦勝の祈願があり、その後に相馬の平将門追討のため下向した六孫王経基は、この旧跡を追懐して、日本武尊と誉田別尊を合祀したと記す。明治5年村社に列した。同41年3月10日次の9社を合祀した。
神明神社、八坂神社、稲荷神社、八幡大神社、滝沢神社、日吉神社、八幡神社、秋津神社、琴平神社(境内掲示より)
征矢神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」