箕輪山霊巖寺。即身仏となった入定塚、武蔵野三十三観音霊場
霊巖寺の概要
真言宗智山派寺院の霊巖寺は、箕輪山満行院と号します。霊巖寺の創建年代等は不詳ながら、千年以上前に草創したと伝えられ、満行上人が開基、宥仙(応永元年1394年寂)が開山、江戸時代には、江戸幕府より寺領4石の御朱印状を慶安4年(1651年)に受領しています。本尊は満行上人の描いた地蔵尊(掛軸)で霊験あらたかだそうです。また、第16世行盛法印は、飢饉を憂い入定、即身仏となった入定塚が当寺の近くに整備されて残されています。武蔵野三十三観音霊場番外1番、武州八十八所霊場87番です。
山号 | 箕輪山 |
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院号 | 満行院 |
寺号 | 霊巖寺 |
本尊 | 地蔵尊 |
住所 | 日高市新堀740-1 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
霊巖寺の縁起
霊巖寺の創建年代等は不詳ながら、千年以上前に草創したと伝えられ、満行上人が開基、宥仙(応永元年1394年寂)が開山、江戸時代には、江戸幕府より寺領4石の御朱印状を慶安4年(1651年)に受領しています。本尊は満行上人の描いた地蔵尊(掛軸)で霊験あらたかだそうです。また、第16世行盛法印は、飢饉を憂い入定、即身仏となった入定塚が当寺の近くに整備されて残されています。
日高市掲示による霊巖寺の縁起
霊巌寺
霊巌寺の草創は、明らかでないが千年以前と伝えられている。寺号の由来は、境内が川に囲まれ、形が農具の箕のようになっているので箕輪山、満行上人の開基に因み満行院、霊巌が湧出しているので霊巌寺となったといわれている。
当寺は明和の初め火災によって、山内の本堂、山門、庫裡を全て焼失したが、明和六年(一七六九)に中興十代秀照法印によって本堂が再建された。この火災の際に、本尊である地蔵尊を描いた掛軸は、火中より飛び出し、本堂の前にある桜の枝に掛り、難を逃れたと伝えられている。なお、堂内には観音像、勝軍地蔵尊が安置され、甲冑一式なども保存されている。
また、寺内には中興開山の人といわれる宥仙の功績を記した明徳三年七月十三日(一三九二)の石碑が建立されている。(日高市掲示より)
新編武蔵風土記稿による霊巖寺の縁起
(新堀村)
靈岸寺
芥輪山満行院と號す、新義眞言宗、入間郡上野村醫王寺末なり、慶安四年地蔵堂領四石の御朱印を賜はる、開山宥仙應永元年七月十三日寂す、本尊大日を安ず、
地蔵堂。榛名満行の畫きし地蔵にして、長一尺七寸許、靈驗あり、常に開扉せず、別に立像長三尺許の地蔵を前に安ず
榛名愛宕稲荷合社
疱瘡神社(新編武蔵風土記稿より)
法印行盛入定塚について
寛政の即身仏
法印行盛入定之地
箕輪山満行院霊巌寺第十六世住職が寛政九年八月五日(西暦一七九六年)に入定
その後度重なる道路拡張等のため上部の石部移動を繰り返したと思われる。
江戸時代天明飢饉の残りの払拭や重い年貢への解消のため即身成仏への荒々しく厳しく苦難行をし入定修行の確念を慕うため関係各位の絶大なる協力と賛助の力を結集し二一〇年経た年此処埼玉県日高市大字新堀字藤川小字吹上七五九の四番地に塚を改修し安住の地と定め恭しく鎮魂供養し将来のために記します。
特に塚を信じて仰ぐ者は初志貫徹、出世確実、願望達成、志望成就、心配解消、心願成就の効があるといわれてきています。
平成十八年丙戌(仏誕二五七ニ年 紀元二六六六年 西暦二〇〇六年)五月五日建之 敬白
芹畦(新編武蔵風土記稿より)
霊巖寺の周辺図