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熊野十二社神社。本庄市東富田の神社

熊野十二社神社の概要

熊野十二社神社は、本庄市東富田にある神社です。熊野十二社神社は、武蔵七党児玉党の富田氏の富田三郎親家が、平安時代末期に熊野那智大社を勧請して創建したと伝えられます。当初熊野三所権現と五所王子・四所宮を合わせて十二所と称していたものの、明治維新後に天神七代地神五代の十二神に改めたといいます。明治5年村社に列格、明治40年に字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀しています。

熊野十二社神社
熊野十二社神社の概要
社号 熊野十二社神社
祭神 国常立尊
相殿 -
境内社 愛宕社・浅間社、八坂社・金鑽社、稲荷社
祭日 元旦祭、祈願祭、祇園祭、秋季例大祭10月、奉告祭
住所 本庄市東富田289
備考 -



熊野十二社神社の由緒

熊野十二社神社は、武蔵七党児玉党の富田氏の富田三郎親家が、平安時代末期に熊野那智大社を勧請して創建したと伝えられます。当初熊野三所権現と五所王子・四所宮を合わせて十二所と称していたものの、明治維新後に天神七代地神五代の十二神に改めたといいます。明治5年村社に列格、明治40年に字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀しています。

境内掲示による熊野十二社神社の由緒

熊野十二社神社の祭神は、国常立尊で、延享年間(1744-1748)に勧請したと伝えられ、社殿は現在覆屋の中にある。
社殿のある小高い丘は、古墳であり、同様なものが周辺に分布している。この古墳群は、東富田古墳群といい、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳は、県下でも数少ない古墳時代初期のものであった。
また、神社の北にある冨田寺は、山号を愛宕山証明院といい、本尊は阿弥陀如来である。
昔、児玉一族の富田氏の祈願所であったと伝えられ、西方には、「代官屋敷」と称される屋敷址があったと言われている。(埼玉県・本庄市掲示より)

新編武蔵風土記稿による熊野十二社神社の由緒

(富田村)
十二社権現社
村の鎮守なり。
金鑚神社
愛宕社
稲荷社
以上四社冨田寺の持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による熊野十二社神社の由緒

熊野十二社神社<本庄市東富田三〇一(東富田字元富)>
東富田は、かつては隣の大字西富田と一村で富田村と称していた。分村した年代は明らかでないが、天正十八年(一五九〇)四月の「信茂判物」(鈴木家文書)には、「両富田之村」とあることから、中世末期には、既に二村に分かれていたと考えられる。
旧富田村は、鎌倉街道が通り、平安末期には武蔵七党児玉党の支族富田氏の本拠地であり、富田三郎親家が居館を構えていた。口碑によると、この親家が当社を紀伊国(和歌山県)の熊野那智大社から勧請するとともに、境内のすぐ北隣に、祈願所として冨田寺を開基し、当社の社務を兼帯させたという。創建の経緯については、親家のころに書かれたと思われる「児玉在所引旦那名字注文写」(熊野那智文書)には「とミた」と同氏の名が見えることから、恐らくは熊野修験の当地周辺での活動が背景となり奉斎されたものであろう。
ちなみに、当社名の「十二社」とは、熊野三所権現と五所王子さらに四所宮を合わせた十二社権現であったものを明治以降、天地修固の天神七代地神五代の十二代の神霊としたものである。
明治五年当社は村社となった。更に同四十年、字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀した。なお、現社殿は延享年間(一七四四-四八)に建てられたといわれ、明治三十四年に台風で傷んでいた大屋根を改修し現在に至っている。(「埼玉の神社」より)


熊野十二社神社の周辺図