小室氷川神社。小室郷八か村の総鎮守
小室氷川神社の概要
小室氷川神社は、伊奈町本町にある神社です。小室氷川神社は、宝治2年(1248)に素盞嗚尊を祭神とする男体宮と稲田姫命を祭神とする女体宮の2社として創建、いつの頃よりか1社となったといいます。応安3年(1370)には別当吉祥院によって社殿が再建され、江戸期には小室郷八か村の総鎮守として祀られていました。また、川越城主・老中松平伊豆守信綱の生家大河内氏の祈願所となっていたことから、松平信綱の崇敬を受け、「知恵伊豆」と称されていた松平信綱にちなんで境内の天神社は「伊豆天神」と呼ばれています。明治維新後の社格制度に伴い、明治6年村社に列格、昭和19年には郷社に昇格していました。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素盞嗚尊、稲田姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 伊豆天神、御嶽、八雲、天神琴平稲荷、祟霊 |
祭日 | 例祭4月15日、浅間様7月1日 |
住所 | 伊奈町本町2-155 |
備考 | - |
小室氷川神社の由緒
小室氷川神社は、宝治2年(1248)に素盞嗚尊を祭神とする男体宮と稲田姫命を祭神とする女体宮の2社として創建、いつの頃よりか1社となったといいます。応安3年(1370)には別当吉祥院によって社殿が再建され、江戸期には小室郷八か村(別所、小室宿、本、柄、柴、小貝戸、中萩、丸山)の総鎮守として祀られていました。また、川越城主・老中松平伊豆守信綱の生家大河内氏の祈願所となっていたことから、松平信綱の崇敬を受け、「知恵伊豆」と称されていた松平信綱にちなんで境内の天神社は「伊豆天神」と呼ばれています。明治維新後の社格制度に伴い、明治6年村社に列格、明治40年から43年にかけて小室領内の39社を合祀、昭和19年には郷社に昇格していました。
新編武蔵風土記稿による小室氷川神社の由緒
(本村)
氷川社
小室郷八ヶ村の鎮守なり、祭神素戔嗚尊・稲田姫命の兩神なり、本尊十一面観音を安ず、當社は松平伊豆守信綱信仰ありて、寛永年中社頭を再建し、供米並に山林を寄附せし由なり、又地頭伊那家よりも山林を寄進す、當社に古棟札あり、表に氷川社再造成就所、應安三戌天三月吉日、小室氏子中、神宮山吉祥院と書し、裏に當寺無住三十五年の後、拙者生國肥後國菊地入道一阿と云○、今○○来て此無住地を○○○○○應安元年申二月城州眞言三寶院○○○
修験坊地に御願申上、神宮山吉祥院を神宮山吉祥院と、永々の御書奉○○則修験地、開山城州吉祥院一宗法印記之とあり、菊地氏のことは吉祥院の條にも見ゆ、棟札の表面年號の内、應の字は後世より記せしさまなれど、剥落せしを補ひしにや、應安三は正しく戌にして疑ふべきにも非ざれば、古社成べし、
神寶。
長刀一振
鎗二本。是は別當の先祖菊地武道入道所持の品なりしを納めしといへど、其頃のものとはみえず
末社。天神稲荷合社、天王社。
別當吉祥院。先祖は肥後の國の住人、菊地武道入道一阿當所に来り、氷川の靈夢によりて別當となりしとぞ、武道入道は應安二年に寂す、今醍醐三寶院の末なり、
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愛宕社
建正寺の持、
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八幡社
林正寺の持、 (新編武蔵風土記稿より)
「伊奈町史」による小室氷川神社の由緒
氷川神社は旧小室村の鎮守である。『新編武蔵風土記稿』(以下、『風土記稿』と略す。) には、「小室郷八ケ村の鎮守なり、祭神素戔嗚尊、稲田姫命の両神なり、本地十一面観音を安す」とある。祭神は、『武蔵国郡村誌』(以下、『郡村誌』と略す。)によると素戔嗚尊と稲田娘命を合祭としている。その後、明治四〇年から明治四三年にかけて、神社合祀が行われ、その結果、旧小室村のムラ持ちの神社は、ほとんど氷川神社に合祀され、旧小室村全体の鎮守になっている。
このため、総代などは、本村を含めた小室中の各地区から出ている。神職は、白岡町の白岡八幡宮の関山氏で、氷川神社が合祀されたころ一時住んだこともあるという。
祭日は、『郡村誌』によれば三月、六月一五日とある。昭和二三年の「埼玉県宗教事情一斉調査票」では、一一月二三日が秩祭としている。現在は一月一日の元旦祭、二月三日の節分、四月一五日の例祭、七月一日の浅間様、一〇月一五日のおひまち、一一月二三日が新穀感謝祭を祭日にしている。
志久からは、地区の代表として神社総代が一人出ている。総代は、祭りのときには参列している。ただし、氏子は祭りがあっても特に参拝することはなく、神楽でもあると見物に行く程度であった。また、子供が生まれたり嫁が来たりしたときに、宮参りはこの氷川神社にお参りしている。
中荻からは、地区の代表として役員が一人、柴からは役員が二人選出される。この柴と中荻から出る三人の役員の代表が、氷川神社の総代となっている。
丸山は、山方、新田、丸ノ内の三つに分かれるが、それぞれ一人ずつ氷川神社の役員が選出される。この三人の中の一人が丸山の代表として、氷川神社の総代となっている。
下郷でも、別所、谷畑、中島、津地、志の崎、浅間の六組から一人ずつ氷川神社の役員が選出される。この六人の中の一人が下郷の代表として、氷川神社の総代になっている。役員は、氷川神社の行事に参加し、カマジメも役員が配る。しかし一般の氏子は、初詣は出掛けるものの、他の行事にはあまり行かない。(「伊奈町史」より)
「埼玉の神社」による小室氷川神社の由緒
氷川神社<伊奈町本町二-一五五(小室字小室)>
小室郷八か村の総鎮守として知られる当社は、宝治二年(一二四八)三月の創建と伝えられる。当初は、素盞嗚尊を祭神とする男体宮と稲田姫命を祭神とする女体宮の両社があったが、いつのころか合わせ祀られるようになったという。当社の本殿が二間社流造りであるのは、このように、男体・女体の両社の合殿であるためである。
『風土記稿』によれば、応安三年(一三七〇)には別当吉祥院によって社殿が再建され、更に江戸時代の寛永年間(一六二四-四四)には川越城主の松平伊豆守信綱によって社殿が再建されたという。同書には、吉祥院による社殿再建の棟札について詳しく記されているが、この棟札はその後所在不明となったらしく現存しない。一方、松平信綱による再建は、当社が信綱の生家である大河内氏の祈願所であったことにかかわる。当社境内にある天神社もまた松平信綱の再建と伝え、「知恵伊豆」と称された信綱にちなみ“伊豆天神”と呼ばれている。
その後も万治年間(一六五八-六一)、元禄年間(一六八八-一七〇四)、安政四年(一八五七)などに本殿の修理が行われ、更に大正十一年の大修理の際に瓦葺きから銅板葺きに改めた。また、昭和五十二年には幣殿と拝殿が新築された。なお、吉祥寺は肥後国住人の菊池武道入道が氷川の霊夢によって当社の別当となった修験で、当社の東側にあったが、神仏分離により復飾して菊池教覚を名乗り神職となった。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による小室氷川神社の由緒
この神社は、鎌倉時代の宝治二年(一二四八年)に勧請され、当時は素戔嗚尊を祀る男体宮と稲田姫命を祀る女体宮の二社であったがいつの頃か合祀されたと伝えられている。その後、南北朝時代の応安三年(一三七〇年)に社殿が再建され、江戸時代には小室郷八か村(別所、小室宿、本、柄、柴、小貝戸、中萩、丸山)の総鎮守となる。明治六年(一八七三年)には村社となり、明治四十年(一九〇七年)から四十三年(一九一〇年)にかけては旧小室村内の三十九の社が合祀され、昭和十九年(一九四四年)郷社に昇格した。現社殿は、昭和五十二年に完成している。
江戸時代には大河内氏や松平伊豆守信綱(老中、忍・川越城主)に由縁が深く、両氏によって度々修復がなされている。
境内にある天神社は、「知恵伊豆」と称されていた松平信綱にちなみ「伊豆天神」と呼ばれ、広く親しまれてきた。
毎年、四月十五日と十一月二十三日の例祭のほか、十二月二十二日には「火渡り」が行われる。これは、松薪を燃やし、その上を素足で渡ることにより無病息災、鎮火防盗を祈願するものである。(埼玉県・伊奈町掲示より)
小室氷川神社の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」
- 「伊奈町史」
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)