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無量寺。伊奈町小室にある真言宗智山派寺院

無量寺の概要

真言宗智山派寺院の無量寺は、西光山安養院と号します。無量寺の創建年代等は不詳ながら、丸山丸ノ内にあり闘伽井坊と号した古刹だったと伝えられ、徳川家康の関東入国に伴い、伊奈熊蔵忠次が丸山丸ノ内を居城としたことから、当寺は当地へ移転、時の住職良鑁は明星院へ転院し当寺を兼帯、以来明星院が兼帯する寺院となったといいます。

無量寺
無量寺の概要
山号 西光山
院号 安養院
寺号 無量寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 伊奈町小室5414
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



無量寺の縁起

無量寺の創建年代等は不詳ながら、丸山丸ノ内にあり闘伽井坊と号した古刹だったと伝えられ、徳川家康の関東入国に伴い、伊奈熊蔵忠次が丸山丸ノ内を居城としたことから、当寺は当地へ移転、時の住職良鑁は明星院へ転院し当寺を兼帯、以来明星院が兼帯する寺院となったといいます。

新編武蔵風土記稿による無量寺の縁起

(小室宿村)
無量寺
新義眞言宗、御室仁和寺末、西光山安養院と號す、開山詳ならず、往古は閼伽井坊と號す古刹なるよし、【小田原役帳】閼伽井坊廿三貫九百文とのせたるは、ここのことなるにや、今も北條家及び岩槻太田氏の文書數通を蔵す、御入國の後天正十九年、伊奈熊蔵よりの寄附状にも閼伽井坊と載たり、中興開山良鑁慶長四年寂す、當寺元は今の丸山村にありしが、小室郡伊奈熊蔵知行となり、當寺の境内西南に原市沼を比嘉へ、要害よければ陣屋を築かんと望みケルに、良鑁も水引して寺所を譲り、其身は倉田村明星院住職尊賢が弟子たるにより、彼地へ写り遂に住職となれり、されば丸山村伊奈熊蔵が陣屋は當寺の舊地なること知らる、後無量寺廢寺の如くにて、明星院より兼帯してありしを、今の所へ再建せしかど、尚無住にして代々明星院よりの兼帯となれり、寺領六十石の御朱印は天正十九年明星院にて良鑁に賜はる所なり、所蔵の文書等も今は明星院にあり其文左の如し(文面省略)(新編武蔵風土記稿より)

「伊奈町史」による無量寺の縁起

無量寺は、西光山安養院無量寺と号する新義真言宗智山派の寺で、本尊は阿弥陀如来である。『風土記稿』によると、現在の京都市左京区にある真言宗御室派の大本山・仁和寺の末寺とされ、往古は闘伽井坊という古刺であったという。開山は不明であるが、永禄二年(一五五九)の小田原衆所領役帳に記載があることから、それ以前に存在したことがわかる。
その当時、闘伽井坊は、丸山の丸ノ内にあった。この場所は、境内西南に原市沼をひかえ、要害の地であったため、天正一九年(一五九一)、伊奈熊蔵忠次は闘伽井坊の場所を居城にした。このため無量寺はこの地に移ったのだといわれている。この当時の住職良鑁は、明星院に移り、無量寺の住職を兼務し、慶長四年(一五九九)に亡くなっている。その後も、無量寺は無住で、住職は明星院の住職が兼務している。
檀家は現在一八軒で、志久に八軒、丸山に三軒、小貝戸に二軒、本に一軒で、このほか分家で大針、上尾、蓮田にもそれぞれ檀家がある。施餓鬼は八月一六日で現在も変わらない。昔は、この寺の土地だけで桶川の明星院まで行けたと言われるくらい土地があったという。(「伊奈町史」より)


いいお墓

無量寺の周辺図

参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「伊奈町史」(伊奈町教育委員会)