鷲香取神社。内牧村総鎮守として勧請された香取神社
鷲香取神社の概要
鷲香取神社は、春日部市内牧にある神社です。鷲香取神社は、仁和年間(885-889)に下総国一宮香取神宮から神馬が逃げだし、当地で補足できた縁により香取神宮の分霊を勧請し、内牧村総鎮守としたと伝えられ、その後内牧村が鷲宮神社を総鎮守とする太田庄に属するようになり、当地が鷲宮の神輿渡御の休泊地とされたことから建久2年(1191)に鷲神社を合祀しています。明治40年内牧地内の8社を合祀しています。
社号 | 鷲香取神社 |
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祭神 | 経津主命、天穂日命 |
相殿 | - |
境内社 | 天満宮、稲荷社 |
祭日 | 例大祭7月18日 |
住所 | 春日部市内牧2286 |
備考 | - |
鷲香取神社の由緒
鷲香取神社は、仁和年間(885-889)に下総国一宮香取神宮から神馬が逃げだし、当地で補足できた縁により香取神宮の分霊を勧請し、内牧村総鎮守としたと伝えられ、その後内牧村が鷲宮神社を総鎮守とする太田庄に属するようになり、当地が鷲宮の神輿渡御の休泊地とされたことから建久2年(1191)に鷲神社を合祀しています。明治40年内牧地内の8社を合祀しています。
境内掲示による鷲香取神社の由緒
仁和年間(西暦八八五年)の頃より、香取神社安置ありし由、この由来の言い伝えによれば、下総国香取郡香取神宮に於いて、神馬迷走し、この地に来る。その頃は当地一帯深山にして、人家も稀れなりしがこの山中に馬の嘶き屡々なりし故、農民等これを見付けたるに、上香取神宮より神馬の脱走を尋ね来りしに依りて速やかに帰宮なしたり。
斯くの如き縁故をもって茲に神宮より分霊を願い内牧村総鎮守と称之を祭る。
建久二年(西暦一、一九一年)の頃、鷲神社を合殿に存置せられたる由、この由来は鎌倉右大将源頼朝公当郡鷲宮村に安置の鷲宮神社に御神仰厚くその頃、当地は太田庄と号し、上神社の区域内とす。故に年々御神輿の渡御あり、殊に当香取神社に於いては、休泊する例なり。
上の縁故により氏子等分霊を願い合殿となしたり。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による鷲香取神社の由緒
(埼玉郡内牧村)
鷲明神香取合社
村の鎮守なり、慶長十九年の勧請と云、南蔵院持、
末社、三峰、淺間、天神、疱瘡神、稲荷八幡合社(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による鷲香取神社の由緒
鷲香取神社<春日部市内牧二二八六(内牧字戸崎)>
当社は地内でも高台にある。『風土記稿』には「鷲明神香取合社、村の鎮守なり、慶長十九年(一六一四)の勧請と云。南蔵院持」とある。一方、社伝によれば、下総国一宮香取神宮の神馬が逃げ、この地に来たのを農民がいななきを聞きつけて、探しに来た者に知らせ帰宮させることができた。この縁で香取神宮に願い出て仁和年間(八八五-九)香取の分霊を勧請し内牧村の鎮守とした。その後、鷲神社が合祀されたのは建久二年(一一九一)という。当時内牧村は源頼朝の崇敬厚かった鷲宮神社(鷲宮町)を総鎮守とする太田庄に属し、当社は毎年鷲宮の神輿渡御の休泊地であったことから、分霊を祀ったという。この鷲神社が合祀されたのは下総と武蔵の国境を画していた利根川の川筋の変更による祭祀圏の移行が背景にあったものであろう。
南蔵院は不動院配下の本山修験の寺で明治維新に廃寺となった。南蔵院の後裔で現宮司を務める矢島家の口碑によれば、元禄時代(一六八八-一七〇四)に九州(福岡・大分・熊本のいずれか)の八島より葛籠に位牌を入れ背負って来た修験者であったという。(「埼玉の神社」より)
鷲香取神社の周辺図