的場八幡神社。窪田家の元屋敷神、的場上地区の鎮守
的場八幡神社の概要
的場八幡神社は、川越市的場にある八幡神社です。的場八幡神社の創建年代等は不詳ながら、窪田家の屋敷神だった当社を、いつの頃か当地へ移転させ、的場上地区の鎮守としたといいます。的場八幡神社本殿は川越市有形文化財に指定されています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社 |
祭日 | - |
住所 | 川越市的場529 |
備考 | - |
的場八幡神社の由緒
的場八幡神社の創建年代等は不詳ながら、窪田家の屋敷神だった当社を、いつの頃か当地へ移転させ、的場上地区の鎮守としたといいます。
新編武蔵風土記稿による的場八幡神社の由緒
(的場)
八幡社
法城寺の持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による的場八幡神社の由緒
八幡神社<川越市的場五二九(的場字若宮)>
的場は入間川の西岸に位置し、村名は昔大道寺駿河守が隣村の上戸の城にある時、弓や銃の的場をこの地に設けたことに由来する。この村は水田が少なく、陸田のほかに粟・稗・麦などの雑穀を栽培していた。また、ここは上・中・下と分かれ、当社の氏子はこのうち上に当たる。上はほかよりやや土地が高く、通称新開といわれ、中・下より後から開けた所である。これは水の便からきており、中・下が早く開けたのは、当社前方五〇〇メートルほどの所にある蟹淵という冬でも枯れない泉を灌漑用として利用できたからである。
当社の創立は、口碑によると氏子窪田家の屋敷神であったものが、いつのころか現在地に移転され、村を守護する社になったという。窪田家については、現在資料はなく村における往時の位置は定かではないが、村の開発にかかわった家であったと思われる。
『風土記稿』によると、江戸期は曹洞宗的場山法城寺が別当を務めていた。
明治に入り神仏分離のため、当社は法城寺の管理を離れたが、神仏習合時代の影響は明治末期まで続き、一〇月一五日のお日待の時には寺から獅子が三頭繰り出し当社でササラを行った。また、現在でも社務所には観音像のほか四体の仏像が祀られており古くからの姿をとどめている。(「埼玉の神社」より)
的場八幡神社所蔵の文化財
- 的場八幡神社本殿(市指定建造物)
的場八幡神社本殿
この地の開発にかかわった窪田家の屋敷神を現在地に移し、村を守護する社にしたのがはじまりといい、江戸期は法城寺が別当をつとめていました。
本殿は小型の一間社流造で覆屋内の石造基壇上にたち、屋根は木瓦葺とし、千鳥破風、軒唐破風を付けます。精巧で複雑な架構と余すところ無く埋めつくされtら彫刻が見所となっています。とくに圧巻は身舎側壁と正面の扉・脇壁にはめ込まれた彫刻です。扉に花鳥、脇壁に鯉の滝のぼり、左側面に神功皇后と赤ん坊(応神天皇)をだく武内宿彌、右側面に司馬温公の甕割、背面に波・松・鷹の丸彫彫刻をはめ込んでいます。いずれも壁面から飛び出た肉厚の彫刻で、人物や事物が大きく彫られています。これらの彫刻は補助的に建築に付加して装飾するという程度をこえ、建築の壁面を借りて彫刻を作品として展示するかのようです。背面は神社本殿の壁面としては高さに比べて幅がかなり広く、彫刻の寸法が建築に先行した可能性も考えられます。
造営年代を直接示す棟札などの史料はありませんが、基壇に嘉永五年(一八五二)八月吉日の刻銘があり、本殿の造営年代も同じころと思われます。(川越市教育委員会掲示より)
的場八幡神社の周辺図