中台八雲神社。川越市中台元町の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

中台八雲神社。埼玉県に指定民俗文化財の川越祭りばやし

中台八雲神社の概要

中台八雲神社は、川越市中台元町にある八雲神社です。中台八雲神社は、『牛頭天王由来書』によると平野原の牛頭天王(平野神社)を、今福村の鬼門にあたる当地に明和4年(1764)に遷した(写した)と記しています。川越藩主松平伊豆守信綱より八畝歩(約8ha)の面除地を万治3年(1660)に与えられたとしていますが同様の伝えが平野神社にも残されています。神仏分離令に伴い明治2年社号を八雲神社と改称、村社に列格し、明治45年南大塚の雷電社を当社地へ遷しています。当社祭礼で奉納される川越祭りばやし(中台)は、川越祭り仲町(旧志義町)の山車でも奉納され、埼玉県無形民俗文化財に指定されています。

中台八雲神社
中台八雲神社の概要
社号 八雲神社
祭神 建速須佐之男命
相殿 -
境内社 -
祭日 4月18日、8月1日、11月27日
住所 川越市中台元町1-13
備考 -



中台八雲神社の由緒

中台八雲神社は、『牛頭天王由来書』によると平野原の牛頭天王(平野神社)を、今福村の鬼門にあたる当地に明和4年(1764)に遷した(写した)と記しています。川越藩主松平伊豆守信綱より八畝歩(約8ha)の面除地を万治3年(1660)に与えられたとしていますが同様の伝えが平野神社にも残されています。神仏分離令に伴い明治2年社号を八雲神社と改称、村社に列格し、明治45年南大塚の雷電社を当社地へ遷しています。なお、当地には牛頭天王が祀られる以前には、稲荷塚と呼ばれ、稲荷祠が祀られていたそうです。

新編武蔵風土記稿による中台八雲神社の由緒

(今福村)
該当記載なし(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による中台八雲神社の由緒

八雲神社<川越市今福二七二八(今福字中台)>
不老川流域の台地は、飯能市に始まり東端の当地に達する。地名はこの台地の今福と新宿の中間にあることから中台と呼ばれるという。
昔、当所には稲荷塚があり、稲荷大神・愛宕大神・猿田彦大神が合祀されていた。今福原の志村家に明暦二年より伝わる『牛頭天王由来書』によると、天文年中、川越夜戦の折、竹原(現砂久保)の平野原に布陣した北条氏康の将兵が邪気に犯されて戦が不可能になった。そこで氏康が天に祈ったところ、牛頭天王が現れて悪気は退散した。氏康は神恩に感謝し、今福平野原の稲荷塚に社を建立したのが当社の始めであるという。
下って享保一七年、同一八年の大飢饉で村民が困窮した折、別当の修験林蔵院と計り、明和四年に当社を村の鬼門に当たる現在地に移転したという。また、同書には、川越城主松平伊豆守から社地が奉納された事が記されている。
当社には、文政二年、明和四年、同二九年の棟札があり、また、安永五年の幟が現存する。
明治二年、神仏分離により社名を牛頭天王から八雲神社と改めて、祭神を建速須佐之男命とした。(「埼玉の神社」より)


「入間郡誌」による中台八雲神社の由緒

八雲神社
字中台にあり、街道の東に位し、一丘の上にあり。其丘高三丈、頂上殆ど正圓形にして、直径六七間、中腹に御岳社あり。樅の大木、若木と相雑はり、境内大に幽邃也。山上の社殿亦之に適へり。村社、中台の鎮守たり。或は曰く。中台の漸く開け始まりし頃に當ては、此丘、甚だ小、唯稲荷の小祠あり而して、實に武蔵野の境塚たるに過ぎざりし也。然るに中台の漸く人家加はるに從ひ、八雲神社を此處に勧請し、丘を高くし、殿を建てたるなりと。此事遂に今福、中台不和の因となりしが、今は兩部落相和し共に大字今福と稱せらる。(「入間郡誌」より)

中台八雲神社所蔵の文化財

  • 川越祭りばやし(中台)(埼玉県指定無形民俗文化財)

川越祭りばやし(中台)

川越地方にはいろいろの囃子があるが、中台系と今福系、それに上尾の堤崎系の三つが特に目立つ。ところで中台と今福は、かつては同じ囃子だったという。それが明治の初期に別れ、それぞれ独自の工夫を重ねて一派をなすまでになってきている。中台の「王蔵流」、今福の「芝金杉流」がそれである。中台の囃子連中は地元八雲神社の祭礼(四月十八日・八月一日・十一月二十七日)に奉納するだけでなく、十月十四日・十五日の川越祭りにも参加、仲町の山車に乗る。その「王蔵流」は神田囃子系の囃子として名高く近隣各地に伝えられている。(川越市教育委員会掲示より)

中台八雲神社の周辺図