下老袋氷川神社。川越市下老袋の神社

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下老袋氷川神社。軍明神・軍勢明神、老袋の弓取式

下老袋氷川神社の概要

下老袋氷川神社は、川越市下老袋にある氷川神社です。下老袋氷川神社の創建年代等は不詳ながら、大宮氷川神社の古式で祀られていた、脛巾社(参道にあった椋の木)が当社でも祀られていたことから、創建年代も古くに遡るのではないかといいます。上中下老袋及び東本宿の鎮守として祀られ、江戸期には玉泉寺が別当を勤めていました。古くから軍明神・軍勢明神とも呼ばれ、日清・日露戦争から太平洋戦争にいたるまで武運長久の信仰が厚く、現在にいたるまで老袋の弓取式が奉納されます。

下老袋氷川神社
下老袋氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 稲荷社
祭日 弓取式2月11日
住所 川越市下老袋732
備考 -



下老袋氷川神社の由緒

下老袋氷川神社の創建年代等は不詳ながら、大宮氷川神社の古式で祀られていた、脛巾社(参道にあった椋の木)が当社でも祀られていたことから、創建年代も古くに遡るのではないかといいます。上中下老袋及び東本宿の鎮守として祀られ、江戸期には玉泉寺が別当を勤めていました。古くから軍明神・軍勢明神とも呼ばれ、日清・日露戦争から太平洋戦争にいたるまで武運長久の信仰が厚く、現在にいたるまで老袋の弓取式が奉納されます。

新編武蔵風土記稿による下老袋氷川神社の由緒

(比企郡下老袋村)
氷川社
上中下老袋村及び本宿川口等の鎮守、本地十一面觀音を安ず、又若宮八幡頭殿權現を配祀せり、玉泉寺持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による下老袋氷川神社の由緒

氷川神社<川越市下老袋七三二(下老袋字宮脇)>
当地は、市の北東部に位置し、入間川は当地付近で東から南へ流れを変える。「老」の字には曲がるという意があり、この曲流による土砂のたい積が入間川に中州を形成し、川に囲まれるとろから老袋の名が付けられたと考えられる。また、猟の際、獲物を追い込む所であったことからその名が付けられたとも伝える。
武蔵野の開発に伴い大宮氷川神社を氏神とする集団が各地に分散して武蔵国に二百余を数える氷川社を祀るが、当社もその一つと思われ、しかもその創建は、氷川社の古い形という、摂社の脛巾社があることから、古いものと考えられる。脛巾社は古くから社殿は無く一本の椋の木であり、門のごとく参道に枝を垂れていたが、現在は切り株を残すのみである。口碑に、昔ここの神様が、大宮の氷川様と戦争をして敗れて帰った時、脛巾をこの木に掛けたので脛巾様と称して祀ったという。このため当社の氏子は大宮の十日市に行ってはならないという。大宮氷川神社にも古く荒脛巾神社と称した摂社があった。『風土記稿』に「古に荒脛巾神社と号せしを(中略)門客人社と改号」がこれである。また「氷川社上中下老袋村及び本宿川口等の鎮守、本地十一面を安ず、又若宮八幡頭殿権現を配祀せり、玉泉寺持」とあり、『芳野村郷土誌稿』に、神体は仏像であり神仏分離の際、旧別当に移したが、無住の寺におくのは忍び難いとして当社に戻したとある。(「埼玉の神社」より)


下老袋氷川神社所蔵の文化財

  • 老袋の弓取式(埼玉県指定無形民俗文化財)
  • 老袋の万作(埼玉県指定無形民俗文化財)

老袋の弓取式

二月十一日にその年の天候を占い、豊年を祈る予祝行事として行われる。下老袋がミヤモトとなり上老袋・中老袋・東本宿がそれぞれに役割を持って行事を行なう。ユミトリッコと呼ばれる男の子に代って大人のユミトリが境内に用意された的を射る。三本ずつ射るが、白い部分に多く当たれば晴れが、黒い部分に多く当たると雨が多い年になると言われている。式の後、甘酒と豆腐田楽がふるまわれ、参加者の健康を祈る。(川越市教育委員会掲示より)

老袋の万作

現在は、四月十一日の春祈祷に、神社内に桟敷を建て奉納される。昔は特別な舞台は作らず、農家や薬師様の座敷を借りて行なったという。もともと明治二十五年頃、比企郡から伝えられた下妻踊りを中心とする踊りであったが、その他段物も盛んに演じられるようになった。段物には笠松峠、お半長右衛門、小栗判官などがある。また、茶番にはお玉ヶ池などがある。豊作万作を願う五穀豊穣祝福の芸能である。(川越市教育委員会掲示より)

下老袋氷川神社の周辺図