北山田八幡神社。日吉山王権現として創建
北山田八幡神社の概要
北山田八幡神社は、川越市山田にある八幡神社です。北山田八幡神社の創建年代等は不詳ながら、厨子に文禄2年(1594)と銘が残され、村民太郎左衛門が日吉山王権現を勧請、江戸期には山王社と称し網代村の鎮守として祀られていました。明治維新後、明治5年村社に列格、明治42年、大字福田の村社赤城神社、字落合の八坂社・頭殿社、字金山の金山社、大字向小久保の村社八幡神社、大字宿粒の村社八幡神社を合祀、赤城神社の社殿を移築し、社号を日吉神社から赤城神社と改号しました。昭和33年赤城神社は福田に、八坂社と頭殿社は落合へ、金山社は金山に還座したものの、向小久保八幡神社と宿粒八幡神社は合祀されたままで、かつ神像も残ったままであったことから、登記は赤城神社のままながら、八幡神社と号しているといいます。(北山田自治会館が地内にあることから、北山田八幡神社と仮称しています)
社号 | 赤城神社 |
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祭神 | 誉田別尊 |
相殿 | - |
境内社 | 日吉神社 |
祭日 | 例大祭9月 |
住所 | 川越市山田225-1 |
備考 | - |
北山田八幡神社の由緒
北山田八幡神社の創建年代等は不詳ながら、厨子に文禄2年(1594)と銘が残され当地網代村の村民太郎左衛門が日吉山王権現を勧請、江戸期には山王社と称し網代村の鎮守として祀られていました。明治維新後、明治5年村社に列格、廃寺となった教覚院は個人宅となり、教覚院境内にあった当社は個人宅地内に鎮座していることが問題となり、当地に遷座したといいます。明治42年、(明治22年に成立した)山田村内に鎮座していた大字福田の村社赤城神社、字落合の八坂社・頭殿社、字金山の金山社、大字向小久保の村社八幡神社、大字宿粒の村社八幡神社を合祀、(一番荘厳だった)赤城神社の社殿を移築し、社号を日吉神社から赤城神社と改号、日吉神社を末社としました。昭和33年赤城神社は福田に、八坂社と頭殿社は落合へ、金山社は金山に還座したものの、向小久保八幡神社と宿粒八幡神社は合祀されたままで、かつ神像も残ったままであったことから、(日吉神社とせず)、登記は赤城神社のままながら、八幡神社と号しているといいます。
新編武蔵風土記稿による北山田八幡神社の由緒
(網代村)
山王社
村の鎮守なり、
別當教學院。本山修験なり、山王山と號す、 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による北山田八幡神社の由緒
赤城神社<川越市山田二二五-一(山田字蔦木町)>
口碑によると、当社の創建は「昔、村の太郎左衛門という者が、近江国滋賀郡坂本村から日吉山王権現を勧請したことによる」という。
当社の旧本殿の内陣に納める山王権現の厨子銘には「奉請日吉山王権現 文禄二癸巳年三月十五日 願主 武蔵国入東郡網代村中右村山王山教学院栄村」とある。
往時、別当を務めていた教学院は、現在当社の西側にある「ホウエン」あるいは「山王様の家」と呼ばれる岩田家である。
古くから当社は教学院の邸内に祀られていたが、明治五年に日吉山王社の社号を日吉神社と改めて村社となり、同三三年に村社が個人の屋敷内に祀られていることは問題であるとの意見があり、現在地に移転した。
明治四二年大字福田の村社赤城神社、字落合の八坂社・頭殿社、字金山の金山社、大字向小久保の村社八幡神社、大字宿粒の村社八幡神社を合祀した。
合祀に伴い福田の村社赤城神社社殿を移築し、同時に社号日吉神社を赤城神社と改称の上、従来の日吉神社を当社末社とした。
昭和三三年福田住民の要請により、赤城神社を返還し社号を八幡神社と改めた。(「埼玉の神社」より)
北山田八幡神社の周辺図