川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡|川越市郭町の名所旧跡

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川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡|城内一番の高地に建っていた櫓と直下の田曲輪の門

川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡の概要

川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡は、川越市にある名所旧跡です。川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡は、明治維新後に取り壊された川越城遺構の一つで、富士見櫓跡は本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓跡、田曲輪門跡は、富士見櫓の下に広がっていた田曲輪の門跡です。富士見櫓跡は現在神道大教御嶽神社となっていますが、この地は川越城の中で一番の高地で、富士山を眺望できたそうです。

川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡
川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡の概要
名称 川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡
みどころ 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 川越市郭町2-15
備考 -




川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡の由緒

川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡は、明治維新後に取り壊された川越城遺構の一つで、富士見櫓跡は本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓跡、田曲輪門跡は、富士見櫓の下に広がっていた田曲輪の門跡です。富士見櫓跡は現在神道大教御嶽神社となっていますが、この地は川越城の中で一番の高地で、富士山を眺望できたそうです。

新編武蔵風土記稿による川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡について

(河越城幷城下町)
本丸
櫓二ヵ所あり、西北の隅にあるを虎矢倉と云、二重の櫓なり、西南の隅にあるを富士見櫓と呼ぶ、この櫓城中第一の高き所なり、富士山目のあたりに見ゆればかく云なるべし、
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田曲輪
本丸の西南富士見櫓の下田曲輪門より東北の方新曲輪に接地まで、本丸の溝堀を廻りたる郭なり、此曲輪の東に清水門と云門ありて、城外への往来を通ず、 (新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による川越城富士見櫓跡について

川越城富士見櫓跡
御嶽神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。
櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりとなっていたと思われる。
今日では木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
元来、城の構造及び構造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶應二年(一八六六)に川越城を測量した時の記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約十五メートル)、横八間(約十四メートル)あったと記されている。(埼玉県掲示より)

境内掲示による川越城跡について

川越城跡
川越城は、長禄元年(一四五七)に太田道真・道灌父子によって築城され、上杉氏六代、北条氏四代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、八郭・三櫓、十二門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と、本丸御殿の一部が残るのみとなった。
富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた三重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。(川越市教育委員会掲示より)


川越城富士見櫓跡と田曲輪門跡の周辺図