本應寺。国家老高山繁文の墓
本應寺の概要
日蓮宗寺院の本應寺は、長久山と号します。本應寺は、谷中感應寺の日長上人を勧請開山として、日春(明暦3年1657年寂)が寛永3年(1626)草創したといいます。川越城主秋元喬朝のもとで国家老を努めた高山繁文の墓は、埼玉県旧跡に指定されています。
山号 | 長久山 |
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院号 | - |
寺号 | 本應寺 |
住所 | 川越市石原町1-4-9 |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本應寺の縁起
本應寺は、谷中感應寺の日長上人を勧請開山として、日春(明暦3年1657年寂)が寛永3年(1626)草創したといいます。
新編武蔵風土記稿による本應寺の縁起
(小久保村)本應寺
日蓮宗、甲斐國身延久遠寺末、長久山と號す、元は江戸谷中感應寺末にて、此邊の觸頭なりしが、當山七世日容の時より身延に屬す、開山日春寛永三年草創し、感應寺の日長を勧請して開山とす、日春は明暦三年八月十三日寂せり、本尊三寶を安ず。
生田稲荷社。生田と云所以は知らず、疱瘡神を相殿とす、爰は元稲荷の社地なりしを寺地とせしかば、今もこの稲荷を以て地主神となせり。
番神堂。日天子・月天子・明星天子・摩利支天を相殿とす。
辨財天稲荷相殿社。
樓門。左右に仁王の像を安じ、樓上に鐘を掛け、延宝五年の鐘銘を彫れり。
塔頭
圓乗坊。讀経祖師坐像八寸なるを安ず、是は比企郡松山の城主に仕へし長澤某が持し像にて、天正十八年松山落城の時、彼長澤は遁れ来て河越鴨田村に住せり、其後厨子の扉を釘もて打付此寺へ納めしに、或時厨子の内にて讀経の聲有ければ、圓乗坊偶開き見て始て祖師なることを知る、因て讀経祖師と號し、其後は人の拝することも許せりと。
真善坊。
東漸坊。
西ノ坊。(新編武蔵風土記稿より)
本應寺所蔵の文化財
- 高山繁文墓(県指定旧跡)
高山繁文墓
高山伝右衛門繁文は川越城主秋元喬朝の家臣で国家老をつとめ、殖産興業の方面で功績を残している。また俳号を麋塒と称し、松尾芭蕉の門人であった。川越転封前は甲州谷村にいたが、芭蕉庵を火事で失って甲州に来遊した芭蕉の世話をしたことが近年になって判明した。麋塒の句には天和二年(一六八二)の「武蔵曲」と同三年の「虚栗」に各五句、貞享四年(一六八七)の「続虚栗」に一句が知られ、真跡の短冊も四枚ほど残っている。六十六歳のとき剃髪して幻世と号を改め、享保三年(一七一八)二月七日、享年七十歳で世を去った。墓碑に「融心院幼世常爾居士」と誌されている。(川越市教育委員会掲示より)
本應寺の周辺図