広濟寺。川越市喜多町にある曹洞宗寺院

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広濟寺。川越城主大道寺駿河守政繁が菩提寺として創建

広濟寺の概要

曹洞宗寺院の広濟寺は、青鷹山慈願院と号します。広濟寺は、川越城主大道寺駿河守政繁が菩提寺として、僧廣井菴芸長(天正元年1573年寂)を開山に迎えて天文17年(1548)に創建したといいます。境内には「三芳野名勝図絵」三巻を著した文化人中島孝昌の墓が残され、埼玉県旧跡に指定されています。

広濟寺
広濟寺の概要
山号 青鷹山
院号 慈願院
寺号 広濟寺
住所 川越市喜多町5-1
宗派 曹洞宗
本尊 -
葬儀・墓地 -
備考 -



広濟寺の縁起

広濟寺は、川越城主大道寺駿河守政繁が菩提寺として、僧廣井菴芸長(天正元年1573年寂)を開山に迎えて天文17年(1548)に創建したといいます。大道寺駿河守政繁は、小田原北條氏の家臣で、内政手腕に優れ、新編相模国風土記稿で引用される文書の差出人として頻出する人物です。

新編武蔵風土記稿による広濟寺の縁起

(喜多町)廣濟寺
曹洞宗、多磨郡根ヶ布村天寧寺末、青鷹山慈願院と號す、寺傳によるに昔大道寺駿河守政繁當所在城の頃、世々の菩提寺として起立し、僧廣井菴芸長を開山とす、時に天文十七年八月廿日なり、此後芸長久しく住して天正元年六月六日寂す、政繁は同十八年七月十九日歿せり、其後上州の人誉田右近親氏と云もの中興す、元和四年十一月十四日親氏歿して證真院其阿経範と諡す、其子孫は中寺山林に本田彌兵衛とて今にあり、本尊は釋迦の像を安ぜり。
鐘楼。明和元年の銘を彫れり。
金毘羅社
稲荷社
白山三峯稲荷合社
辨天社
婆塔。石にて作る長三尺ばかり、今は形もやつれて見わかず程なり、里人痰病を患ふるもの此塔に祈願して験を得るもの多しと云。(新編武蔵風土記稿より)


広濟寺所蔵の文化財

  • 中島孝昌墓(埼玉県指定旧跡)

中島孝昌墓

中島孝昌は幼名を徳三郎といい、のち徳右衛門と改め、家業をつぐとともに五代目絹屋与兵衛と名乗り、川越鍛冶町の名主役をつとめた。きわめて好学の人で海保青陵や伊藤恒庵について学び、字を済美、諱名を孝昌と唱えた。和歌、俳諧をよくし桜斉其馨、酔春亭、桜曙園などと号し、また狂歌を鹿都部真顔に師事し、桜戸の茂躬、栗下庵などといった。さらに川越の地誌としてもっとも秀れた「三芳野名勝図絵」三巻を著わし、後人を裨益するところ多大なものがあった。文化五年(一八〇八)正月十日、四三歳で歿した。広済寺の墓石には「啓宗其馨居士」とあり、「消えてこそまことなりけり雪仏」という辞世の句が刻まれている。(川越市教育委員会掲示より)

広濟寺の周辺図