長福寺。太田道灌公らが帰依、鎮目下総守安経が再
長福寺の概要
曹洞宗寺院の長福寺は、吉祥山と号します。長福寺は、澤文善光和尚が永享元年(1429)犬竹(鯨井春日神社周辺)に庵室を創建、庵室を永享8年(1436)に継いだ雲崗俊徳禅師は、太田道灌公らの帰依を得て、吉祥山長福寺と号して開山、永享12年(1440)頃には足利義教公より寺領85石のご朱印を受領したと伝えられます。文明7年(1476)兵乱により消失したものの、鎮目下総守安経が、主君(蒲原城主)北条新三郎綱重公・父鎮目鹿之助の菩提を弔うために長福寺を再興、その後当地へ移転したといいます。江戸期には近隣に末寺12ヶ寺を擁していました。
山号 | 吉祥山 |
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院号 | - |
寺号 | 長福寺 |
住所 | 川越市鯨井1142 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釋迦牟尼仏像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長福寺の縁起
長福寺は、澤文善光和尚が永享元年(1429)犬竹(鯨井春日神社周辺)に庵室を創建、庵室を永享8年(1436)に継いだ雲崗俊徳禅師は、太田道灌公らの帰依を得て、吉祥山長福寺と号して開山、永享12年(1440)頃には足利義教公より寺領85石のご朱印を受領したと伝えられます。文明7年(1476)兵乱により消失したものの、鎮目下総守安経が、主君(蒲原城主)北条新三郎綱重公・父鎮目鹿之助の菩提を弔うために長福寺を再興、その後当地へ移転したといいます。江戸期には近隣に末寺12ヶ寺を擁していました。
境内石碑による長福寺の縁起
長福寺本堂新築記念碑
長福寺は、永享元年(一四二九)に天下の動乱をさけ河越下犬竹の地に草庵を結び民衆を教化した澤文善光和尚により開創された。善光和尚歿後、永享八年(一四三六)雲崗俊徳禅師が伊勢の国より来りこの草庵に住して仏道を説き多くの帰依者を得た。特に川越城を築いた太田道灌公は禅師を参禅の師と仰ぎ禅師に就いて出家し道灌と号した。禅師は、寺を完備し吉祥山長福寺と名付け自ら開山となる。時の開基は足利六代将軍義教公と思われる。寺伝では永享十二年(一四四〇)の頃義教公より寺領八十五石のご朱印を賜ったと伝えられている。文明七年(一四七六)兵乱に会い寺は消失。
二世鶴峰和尚の頃甲斐の武田との戦いに敗れた駿河国蒲原城主北条幻庵の子新三郎綱重公・家臣の鎮目鹿之助の菩提を弔うため鹿之助子鎮目下総守安経が主君を開基に父を副開基として長福寺を再興し後鯨井に移り隆盛をなす。江戸時代には末寺十二ヶ寺を持ち繁栄した。現在末寺は二ヶ寺である。明治十一年十月火災により堂宇等一切を消失。明治三十五年に仮本堂建立。今年で五百八十年の歴史豊かな古刹長福寺である。(境内石碑より)
新編武蔵風土記稿による長福寺の縁起
(鯨井村)
長福寺
吉祥山と號す、これも曹洞宗、入間郡越生龍穏寺末、本尊釋迦を安ず、開山は本山第五世雲崗(山へんに岡)俊徳、永正十三年五月十五日寂す、開基は駿州蒲原城主北條新三郎、永正六年六月朔日卒と、寺記に見えたり、然るに是より後六十年を經て、同城主に北條新三郎綱重なるもの、永禄十二年十二月六日、武田信玄の爲に討死云々と、云ことあり、もし此人ならんには、中興開基なるべし、去れど永正の比にも、同名の人ありしや、未だ所見なければ、其詳なることをしらず、(新編武蔵風土記稿より)
長福寺の周辺図