東明寺。時宗開祖遊行一遍上人が開山
東明寺の概要
時宗寺院の東明寺は、稲荷山稱名院と号します。東明寺は、時宗開祖遊行一遍上人(正応2年1289年寂)が開山となり創建、広大な寺領を有し、その寺領は東明寺村・寺井三か村・寺山村に及び、惣門は現喜多町の中ほど辺りにあったといいます。
山号 | 稲荷山 |
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院号 | 稱名院 |
寺号 | 東明寺 |
住所 | 川越市志多町13-1 |
宗派 | 時宗 |
本尊 | 虚空蔵菩薩像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東明寺の縁起
東明寺は、時宗開祖遊行一遍上人(正応2年1289年寂)が開山となり創建、広大な寺領を有し、その寺領は東明寺村・寺井三か村・寺山村に及び、惣門は現喜多町の中ほど辺りにあったといいます。
埼玉県掲示による東明寺の縁起
東明寺は、時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。
お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成されており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺は、こうした土豪の一人河越氏の庄園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は、東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから、喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文十五年(一五四六)四月に戦われた上杉・北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺領と境内で争われたものである。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による東明寺の縁起
(志多町)東明寺
稲荷山稱名院と號す、時宗にて相模國藤澤清浄光寺の末寺なり、開山遊行一遍上人正應二年八月廿三日示寂す、本尊虚空蔵立像にて慈覺大師の作なりと云、靈験あらたなるを以、深く秘してたやすく拝することをゆるさずと云。
鐘楼。鐘に寛政六年の銘文を彫る。
稲荷諏訪天満宮三社。塚上にあり、この塚は天文十五年當所夜軍の記に、難波田弾正が東明寺口の古井に陥て死せしと見えたるは、此所にて廢井を埋みてその上へきづきし塚なりと云、三社の内諏訪明神は、難波田が靈を祀りしなりと云、この塚のわたり七間ばかりもあるべし、又云寳暦の頃まで境内の南の方に塚ありしを、住僧隠宅をつくるとてその塚をこぼちしに、髑髏四五百ばかり出たりと云、その諏訪の社もその塚の上にたてしなりとぞ、よりておもふに難波田が落いりし井戸も、今の所にてはあらざるか。(新編武蔵風土記稿より)
東明寺の周辺図