常楽寺。河越館内に開山、河越領主大道寺駿河守政繁が中興開基
常楽寺の概要
時宗寺院の常楽寺は、川越山と号します。常楽寺は、総本山藤澤山清浄光寺遊行三世中政智徳上人(元応2年1320年寂)が河越館内に開山、小田原北条氏の家臣で河越を領有していた大道寺駿河守政繁(松雲院殿江月常清大居士、天正18年卒)が中興開基しています。
山号 | 川越山 |
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院号 | - |
寺号 | 常楽寺 |
住所 | 川越市上戸194 |
宗派 | 時宗 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常楽寺の縁起
常楽寺は、総本山藤澤山清浄光寺遊行三世中政智徳上人(元応2年1320年寂)が河越館内に開山、小田原北条氏の家臣で河越を領有していた大道寺駿河守政繁(松雲院殿江月常清大居士、天正18年卒)が中興開基しています。
新編武蔵風土記稿による常楽寺の縁起
(上ハ戸村)
常楽寺
川越山と號す、時宗なり、相模國鎌倉郡藤澤山清浄光寺末、開山一遍遊行三代中政智徳上人、元應二年七月朔日寂す、中興開基大道寺駿河守、法謚は松雲院殿江月常清大居士、天正十八年七月十九日卒、本尊阿彌陀木の立像長三尺、脇士觀音勢至木の立像、共に長一尺七寸、皆運慶の作なり、樓門の内本堂前通り凡て花木のみあり、花時の勝楽いと善し、土人此寺を稱して三芳野道場と云、川越城の舊跡なり、又大道寺駿河守砦の跡なりとも云ふ事は總説に辨ず、寺後に大道寺の墓碑あり、古碑は破壊せしゆへ、寛政年中再建せり、大道寺家の子孫今も芝三田にありて、毎歳七月十九日弔祭すと云、
表門。左右梅・桃・櫻等の並木あり、
山門。上に洪鐘を懸く、釋迦・文殊・普賢・四天・地蔵・龍樹・十六羅漢の木像を置き、下に金剛・力士の二像を安ず、其長共に七尺餘なり、
本堂
庫裡
觀音堂
古碑。寺後墓所の入口にあり、長二尺五寸、上に六字の名號を彫り、下に河越山常楽寺、開山遊行三祖他阿上人、智徳大和尚と刻す、脇に元應二年とあり、この外寺主歴代の石碑八九本あり、或は毀折し、或は剥滅して讀がたきもの多し、唯その中に分明なるものは、應永十一年・大永六年・延文庚子と勒する三碑あるのみなり、
堤二ケ所。一は村の東にて、寺の前通りにあり、長五十八間或二間、一は村の艮に當りてあり、長三十間或は六間、
土手二ケ所。一は村の北にて、寺の後通りにあり、長さ九十八間或四五間、一は村の艮にて字古屋敷通りにあり、長九十八間或四五間、高さ一二丈、土手下通り堀切あり、深さ五六尺より丈餘に及べり、幅の廣狭は異なれ共凡三間許、土人の云るごとく、この邊は城址壘壁の跡と思はるゝなり、
寺寶
椀二具。五つ組にて、内朱外黒、葵の御紋を模せり
銚子一。黒ぬり、同じく御紋を模す、以上二品は大道寺家用ゐし器なりと云、按に是は其頃神君より賜はりしものなるべし。
鐙一足。五六にて、丸に三つ引の紋あり、
鞍一口。無銘木地ぬり、欄干の高蒔絵にて、寄品に見ゆ、これも大道寺所持の品なりといふ、(新編武蔵風土記稿より)
常楽寺の周辺図