前川神社。洪水を堰き止めるため勧請、旧称勢貴明神社
前川神社の概要
前川神社は、川口市前川町にある神社です。前川神社の創建年代等は不詳ながら、社辺を流れる川を入間川と称していた頃、洪水で大神が流れてて当地に堰に留まったことから、社を建立、関の社(勢貴明神社)と称したといい、『延善式』神名帳武蔵国足立郡四座の内の多気比命売尊勢貴大明神だといいます。江戸期には勢貴明神社と称し、前川村・文蔵村の鎮守社だったといい、明治6年村社に列格、明治40年には字関下神社・字島在家神明社・山王社を合祀、昭和40年前川神社と改称したといいます。
社号 | 前川神社 |
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祭神 | 多紀理比売命、多岐都比売命、狭依毘売命 |
相殿 | - |
境内社 | 八坂神社、持田稲荷 |
祭日 | - |
住所 | 川口市前川町3 |
備考 | - |
前川神社の由緒
前川神社の創建年代等は不詳ながら、社辺を流れる川を入間川と称していた頃、洪水で大神が流れてて当地に堰に留まったことから、社を建立、関の社(勢貴明神社)と称したといい、『延善式』神名帳武蔵国足立郡四座の内の多気比命売尊勢貴大明神だといいます。江戸期には勢貴明神社と称し、前川村・文蔵村の鎮守社だったといい、明治6年村社に列格、明治40年には字関下神社・字島在家神明社・山王社を合祀、昭和40年前川神社と改称したといいます。
新編武蔵風土記稿による前川神社の由緒
(前川村)
勢貴明神社
祭神は多気津姫命、當村及び文蔵村の鎮守とす、相傳ふ古此地川に添たる故、屡洪水ありしかば、水災守護のために勧請し、洪水を堰留るの心にてかく號すと云、一説に始は文蔵村に勧請せしが、水の時流れ来りし故是に祀れりと云。
末社。稲荷社、住に神社、辨天社
別當東福寺
新義真言宗、慈林村寶厳院門徒、本尊金剛界大日を安置せり。
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天神社
神體は菅神の畫像にて、石山左中将基薫卿筆、上に讃あり、是は高辻大納言鹽長卿の筆なり、村民持。
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神明社
村民持下同し
八幡社
山王社
稲荷社二宇
愛宕社
天王社
八幡社。萬福寺持、下同じ。
十二社(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による前川神社の由緒
前川神社(川口市前川町三-三七四)前川宇島在家家
大官台地の南に広がる低地を流れる入間川(後の荒川)は、かつて大宮台地の縁を沿うように流れ、当地は、その自然堤防に発達した集落である。『風土記稿』前川村の項に「古秩父川係りし故、此名は起りしならんと云、秩父川は 則荒川にて、其所を秩父川の蹟と呼ぶ、今総て水田となりたれど、川蹟は地形おのづから低し」とある。また、この川は芝村に沿って流れていたことから芝川とも呼ばれていたが、見沼の開発のころには、見沼から流れて当地で合流していた支流の方を芝川としたため、元の川を古芝川と呼ぶようになった。
当社の社号も昭和四十九年に、この地名にちなんで改称したものであるが、それまでは勢貴社と号していた。
宝永七年(一七一〇)二月十七日に別当東福寺盛覚が記した「縁起」(当社蔵)によると、祭神は多気比命ノ売尊で、尊は当所に船で着き、下りた所を下り原といい、当社東方の今は天神が祀られている地である。永正九年(一五一二)の雷火により、勧請の縁起や古い証文等を焼失した。その後、文禄三年(一五九四)に東福寺先住範宥法印が法華経一部を天下泰平御祈祷のため社内に納め読誦した。当社は当村と文蔵村の惣鎮守で、『延善式』神名帳武蔵国足立郡四座の内の多気比命売尊勢貴大明神であるが、縁起等が焼失し不分明なため、京都の吉田家にて古きを尋究し、内陣に幣帛三本御備三膳を置き、御紋橘、祭礼九月十七日、本地仏は金(金剛界)大日如来と定められ、正一位勢貴大明神の宣旨を宝永六年(一七〇九)臘月十六日に頂戴した。ただし、本地仏は社内に置かず、東福寺の本尊を本地仏としたとある。
なお、この縁起にある宗源宣旨と宗源祝詞は今も社蔵されるほか、大願主本橋重右衛門により、この縁起と同時に納めた奉斎札も残る。
また、文化三年(一八〇六)九月に当村字雁丸に住む斎藤信忠が、別当勢貴山東福寺に上梓した「前川文蔵両邑鎮守 勢貴大明神由来記」(当社蔵)によると、勢貴大明神は多気津姫命にて水徳の神である。昔、ここは入間川の入江で堰があったが、大河に設けた堰のため利き目がなく、不利の堰と呼ばれ、洪水の時には数度に及びこの地に被害をもたらした。そこで時の国司が水災守護のためにこの神を勧請し、神徳により水が堰止められたことから、勢貴大明神と号したとある。
現在の本殿は、旧来の建物であったが老朽化のために大正十四年の社殿改築以来、境内の祖霊社として使用していたところ、昭和五十二年社殿造営の折の調査で、安土桃山時代(一五七三-一六〇〇)の建造物とわかり、修復して再び本殿としたもので市の文化財となっている。また、社蔵の古い金幣には、元禄二年(一六八九)の一本幣と享保十五年(一七三〇)の三本幣があり共に別当東福寺の寄進である。
明治以降、祀職は根岸春日神社の矢作家、鳩ヶ谷氷川神社の島田家が務め、その後星野信治-敬一と継ぎ、現在、星野健一が務める。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
境内掲示による前川神社の由緒
前川神社由来
当社の御祭神は多紀理比売命、多岐都比売命、狭依毘売命の三女神にして、往古は文蔵村に在しが、社辺を流るる川を入間川と称せし頃、当所入江にして堰あり洪水の為、大神流れ来りて該関に留り給うに依りて、ここに社を建てて、関の社と云伝う。又大神洪水を塞さ堰に留給う塞の神、勢貴妙院とも称し、以前文蔵村鎮守にして該村の民は此の社の氏子にして文蔵村社跡と云う地あり、氏子前川村五十八戸、文蔵村六十九戸と伝へらる。
宝永七庚寅二月十七日別当東福寺盛覚縁起と云う古文書に依れば永正九年癸戌七月十五日、(今から四六六年前)雷火の為縁起古き証文等皆焼失し明神の義は当村文蔵村惣鎮守にて、足立四座の内多紀比売尊勢貴大明神と申奉り候得共縁起等消失仕り不分明なり、別当氏子合致京都吉田にて古を尋究、内陣に幣帛三本、御備三膳、御紋橘、祭礼九月十七日と定め、これにより御官位願い奉り。
宝永六年十二月重篤日神祇官領従五位卜部朝臣兼敬の宣旨にして正一位勢貴大明神の極位を奉授、内陣へ幣帛御備あり。
明治六年四月村社に列せられ、明治四十年には字関下神社字島在家神明社及山王社を合祀す。
大正十四年本殿等改築。
昭和二十八年五月二十九日宗教法人に依る登記。
昭和四十年五月十五日より勢貴社を前川神社と改称し現在に至る。(境内掲示より)
前川神社の周辺図