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観福寺。川口市前川にある真言宗智山派寺院

観福寺の概要

真言宗智山派寺院の観福寺は、補陀洛山清浄院と号します。観福寺は、勢貴社(現前川神社)別当の東福寺が村内の満福寺(現在墓地)と明治初年に合寺、大正末期にその満福寺が観了坊と合寺し現在の観福寺と改称したといいます。当寺所蔵の”前川観音”は、観了坊が祀っていた千手観世音菩薩像で、平清盛の嫡流のひ孫六代(平高清・妙覚)の守り本尊だったといいます。六代は出家(妙覚上人)したものの、源頼朝に捕らえられ、その後斬首されたとも、当地に逃れて寛喜2年(1223)入寂したともいい、観了坊はこの妙覚上人を開基とするといいます。六代(妙覚)にまつわる伝説は、力神社にも残されています。足立坂東三十三ヶ所霊場32番、武蔵国八十八ヶ所霊場64・65番、北足立八十八ヵ所霊場65番です。

観福寺
観福寺の概要
山号 補陀洛山
院号 清浄院
寺号 観福寺
住所 川口市前川4-30-13
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



観福寺の縁起

観福寺は、勢貴社(現前川神社)別当の東福寺が村内の満福寺(現在墓地)と明治初年に合寺、大正末期にその満福寺が観了坊と合寺し現在の観福寺と改称したといいます。当寺所蔵の”前川観音”は、観了坊が祀っていた千手観世音菩薩像で、平清盛の嫡流のひ孫六代(平高清・妙覚)の守り本尊だったといいます。六代は出家(妙覚上人)したものの、源頼朝に捕らえられ、その後斬首されたとも、当地に逃れて寛喜2年(1223)入寂したともいい、観了坊はこの妙覚上人を開基とするといいます。

新編武蔵風土記稿による観福寺の縁起

(前川村)
勢貴明神社別當東福寺
新義真言宗、慈林村寶厳院門徒、本尊金剛界大日を安置せり。
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萬福寺
新義真言宗、慈林村寶厳院末、阿闇山不動院と號す、開山詳ならず、歴代僧の内宥朝と云もの、寛永四年三月廿一日寂すと云を古しとす、中興開山宥範享保元年七月六日示寂、本尊不動を安ぜり。
鐘楼。鐘は正徳三年鋳造の銘あり。
大日堂。
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観音堂
千手観音長一寸八分、行基の作にて平惟盛が息男六代禅師の守護佛なりと云、元和二年新に一尺八寸の像を作りかの守護佛を腹籠りとなせり、縁起の略に云、此像は古高雄の文覺より六代禅師に授し肌の守にして、六代此像の靈験によりて命をたすけられしが、後年謀反のことにつき召捕れ、すでに誅せられんとせし時も、靈験ありて、其所をのがれ忍で當所に来れり、今小名に下原笠脱など呼ぶは、六代がここに来りしとき、馬よりおりし所と、笠を脱し所なればかく名づけり、其後六代に隠れ住する由、鎌倉に聞えしかば又召捕んとするに、六代が婆三ヶ所に見えなどし、色々の靈験ありてつひに捕る事を得ず、其三ヶ所と云は伊苅・根岸の二村、及び當所なり、さればかの村々にも六代を祀りし社あり、それより六代は當所に小堂を建、守護佛を安置し、おのれもここに住し、寛喜二年三月十七日六十八歳にして寂せりと、此説信ずべきにあらざれど、姑くここに記せり、今伊苅に六代権現社及び其塚なりとて松をしるしに植し小なる塚あり、根岸村には廢せしにや存せずと云、【平家物語】に正治元年文覺配流の時、六代禅師鎌倉に召下され、岡部権頭に仰て多古江かわの端にて誅せらるとあり、此芝と云は何れの國なることは載ざれど、此所の隣村を芝と唱ふるを以て見る時は、もしくは此邊のことなるも知るべからず、【東鏡】建久五年四月廿一日の條に、故小松内府孫子(惟盛卿男)六代禅師、自京都参向、所帶高尾文覺書状也、偏依恩化繼命之間、於關東更不存巨悪、矧且於遂出家遁世哉之由、屬因幡前司廣元申之云云、同五月十四日の條に、六代禅師事有其沙汰暫可令止住關東之由、是平治逆亂之時、故小松内府爲源家、被施芳云訖、依不思食忘如此云云、同六月十五日の條に、将軍家招六代禅師對面無異心者、可補一寺別當職之由被仰云云、これによるに六代禅師暫く關東に来り住せしことあれば、當所伊苅根岸は其頃所縁にてもありし地に、よりてかくつとふることなるべし。
別當観了寺。新義真言宗、慈林村寶厳院門徒なり。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による観福寺前川観音の縁起

厄除前川観音縁起
今から八百年ほど前のことです。源氏に敗れた平惟盛の子、六代は京都で捕われたが、文覚上人の決死な助命により命を救われ、その後六代は源氏に対し謀反の心の無いことを示す為、出家し妙覚と称した。
やがて源頼朝なき後、鎌倉幕府は再び首を斬ろうとしたが妙覚の胸にあった念持仏の千手観音から五色の光が輝き斬り手の目がくらみ転倒してしまった。その時とこからともなく二頭の白馬が駆け寄り妙覚を乗せて飛ぶがごとくに走り去った。やがていく時か過ぎ馬の足が止まった所が、この地武蔵国前川の里であった。妙覚は重なる仏恩に感謝し、小堂を建立しこの念持仏を安置し、朝夕観音経を読誦し、寛喜二年三月十七日六十九才にて遷化した。なお斉藤実盛の子斉藤五、斉藤六、従者大熊六郎らが、妙覚を守護し、この地に残り、前川の斉藤、大熊氏の始めとなった。前川観音は妙覚上人のたび重なる災難を防いだので「厄除観音」、近年では多くの良縁が成就する「縁結観音」として信仰を厚くし、毎月十七日の縁日では、今でも観音経が唱え続けられている。(境内掲示より)


観福寺所蔵の文化財

  • 景清の牢破り図絵馬(川口市指定文化財)

景清の牢破り図絵馬

絵馬が奉納されている観福寺観音堂は、源平の合戦で敗れた平惟盛の子息六代禅師の守護仏を納めたと伝えられる千手観音菩薩像を本尊とし、古くから「前川観音」と呼ばれ、多くの人々の信仰を集めてきました。
この絵馬は、江戸時代に発達した大絵馬の形態に連なるもので、縦174.0cm、横136.0cmと大きく、桐材9枚を使用して描かれています。銘は「奉納御寶前、寶暦十一辛巳年、仲夏吉辰、川口宿中」とあり、宝暦11年(1761)に川口宿の観音講中によって奉納されたものです。歌舞伎十八番の演目「景清」における平景清が牢破りをする有名な場面を描いたもので、主人公の景清が熱心な観音信仰者に因んで描かれたものです。
当絵馬は、当時の庶民たちの間にも、歌舞伎文化がかなり広く浸透していたことを窺わせるとともに、絵師は不明ながら、製作年代からも、また絵画的に見ても、極めて史料的価値が高い文化財です。(川口市教育委員会掲示より)

観福寺の周辺図