峯ヶ岡八幡神社。鶴岡八幡宮を勧請、旧谷古田領の総鎮守
峯ヶ岡八幡神社の概要
峯ヶ岡八幡神社は、川口市峯にある八幡神社です。峯ヶ岡八幡神社の創建年代は不詳ながら、鎌倉時代には当地谷古田領が鶴岡八幡宮の社領だったことから遥拝所として創建されたのではないかといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領30石の御朱印状を受領、江戸期には谷古田領の総鎮守社として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し、明治6年郷社に列格、明治40年には東貝塚字若宮の村社八幡社、峯字後の村社氷川社、新堀字前の村社神明社、榛松字道内の村社三島神社の四社を合祀、昭和30年頃には松原団地造成に伴い、当地南方20メートルほどの山が切り崩され、その山に鎮座していた高稲荷神社を遷座しています。
社号 | 八幡神社 |
---|---|
祭神 | 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇 |
相殿 | - |
境内社 | 白山・神明・日枝社合殿、稲荷神社、諏訪神社、御嶽社、須賀社 |
祭日 | 例大祭9月15日 |
住所 | 川口市峯1304 |
備考 | 旧谷古田領の総鎮守 公式ページ |
峯ヶ岡八幡神社の由緒
峯ヶ岡八幡神社の創建年代は不詳ながら、鎌倉時代には当地谷古田領が鶴岡八幡宮の社領だったことから遥拝所として創建されたのではないかといいます。徳川家康が関東入国した翌年の天正19年(1591)には社領30石の御朱印状を受領、江戸期には谷古田領の総鎮守社として祀られていました。明治維新後の社格制定に際し、明治6年郷社に列格、明治40年には東貝塚字若宮の村社八幡社、峯字後の村社氷川社、新堀字前の村社神明社、榛松字道内の村社三島神社の四社を合祀、昭和30年頃には松原団地造成に伴い、当地南方20メートルほどの山が切り崩され、その山に鎮座していた高稲荷神社を遷座しています。
新編武蔵風土記稿による峯ヶ岡八幡神社の由緒
(峰村)
八幡社
谷古田領の總鎮守とす、身體僧形にして長七寸許、慈覚大師の作傍に仲哀天皇の御像あり、気比明神と崇む、又古鏡一面を香取明神の身體とす、是は神功皇后を祀れりと云、當者勧請の歴年は傳へざれど、前村の條に云る如く、此邊古の矢古宇郷ならんには鶴岡社領たりし頃、土人遥拝のために勧請せしなるべし、天正十九年社領三十石の御朱印を賜ふ、例祭八月十五日、又毎年正月朔日戸帳を開く事あり、其時は村民の内十人衆と稱する家ありて、此ものども集りて開くを例とす、本社の傍に銀杏の老樹あり、囲み二丈四五尺、是は若狭の八百比丘の植し由、尼は郡中貝塚村の人と云傳ふ、されど諸記に八百比丘尼は若狭國小松原の人とみへたり。
甲冑一領。黒糸縅なり。
太刀一振。
棟札一枚。大永七年造営の棟札なり、此餘白幡大般若経などあり、何れも傳来の故を知らず。
白山若宮山王合社、弥陀堂。弥陀は慈覚大師の作にて當社の本地佛とす。
地蔵堂。
不動堂。
神楽堂。三十番神を置り。
鐘楼。
社家、飯田左膳。
別当新光寺、(以下中略)
---
氷川社。
村の鎮守とす、新光寺持。下同じ。
---
稲荷社。
土人高稲荷と稱す。此社地高くして南を望めば、遥に東叡山及び品川の海上などみゆ、又巽の方は下総國国府臺、艮の方は新利根川のほとり樹間にみえて、尤景勝の地なり、思ふに此所北の方は殊に高く、南の方一段低きさま古墳などにてあるべし。 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による峯ヶ岡八幡神社の由緒
峯ヶ岡八幡神社<川口市峯一三〇四(峯字後)>
川口市東部から草加市西部にまたがる地域は、中世、矢古宇郷と呼ばれ、鎌倉の鶴岡八幡宮領であった。「関東下知状」(鶴岡八幡宮文書)によると、承久三年(一二二一)八月二日、北条義時は、当郷を鶴岡八幡宮に安堵している。当社の創建は、恐らく鶴岡八幡宮が郷司として社領経営を強固なものとするため、郷中惣鎮守として同宮を分祀したものと考えられる。
鎮座地の「峯」は、大宮台地の南端にあって、鎌倉の鶴岡八幡宮の鎮座地景観を模したような小高い丘の上にある。既に南北朝期にはその地名が見え、初見は文和二年(一三五三)八月三日の新光寺蔵大般若経奥書で「持筆峯村八幡宮住明円」とある。これは、当社に住した明円が大般若波羅密多経の第五六九巻を写経した奥書である。
祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱である。「御幣山神宝院新光寺如法経縁起並ニ八幡宮略縁起」(新光寺文書)には、当社の神座について、左座は仲哀天皇で気比大明神、右座は神功皇后で香椎大明神、正面は応神天皇で正八幡宮とある。応神天皇は僧形で慈覚大師の作、仲哀天皇が弓矢を持ち武威を示すのは八幡の俗世の形、神功皇后の正体が明らかでないが、八幡の本地である阿弥陀如来の形であろうとしている。
内陣に奉納の応神天皇、すなわち僧形八幡神像は、二枚の檜材の寄木造りで、高さは二四センチメートル、礼盤台座に座し、袈裟をまとった法体の像で、右手に錫杖、左手に経巻を持っている。更に、光背には金色の日輪が付けられている。鎌倉後期の木造彫刻とされ、県指定文化財となっている。また、この像の胎内には、約四〇点の願文が納められていた。願文の多くは弘安五年(一二八二)七月二十三日銘の小紙片で、子孫繁栄・病気全快・現世安穏・所領安堵などがある。
造営については、元禄十年(一六九七)の棟札に大永七年(一五二七〉の社殿建立を伝える。また、社領については、天正十九年(一五九一)に徳川家康から三〇石が安堵されている。
別当は本尊阿弥陀如来を安置する御幣山神宝院新光寺で当社の東側にある。「谷古田八幡宮略縁起」(社蔵文書)に同寺は、後三年の役に新羅三郎義光と源義家が奥州征討の途次、当社に戦勝を祈願するや二羽の白鳩が出現し、金の幣帛となって東北へ飛び去った。戦では、この幣帛が度々現れて乱が平定できたので、奥州の帰路、義光と義家は一寺を建立し、山号を御幣山、寺号を新羅三郎義光から二字を取り、新光寺としたと伝える。前掲の「新光寺加法縁起」によると、同寺は中古、修験の支配に属し、後に原村密蔵院末の真言宗寺院となる。しかし、寛永十八年(一六四一)三月十七日「東叡山寛永寺直末許状」(新光寺文書)が天海僧正から発給され、真言宗寺院から天台宗直末寺院に改宗することになる。
社家は、江戸期を通じて神祇管領吉田家配下飯田家が務めている。「飯田主膳峯ヶ岡八幡宮神職帰役願」(飯田家文書)によると、寛保元年(一七四一)九月、飯田主膳は、社家印形違背があったことから別当新光寺と出入りに及び、寺社奉行大岡忠相の裁許により、神主免許及び社役を召し上げられて追放となり、江戸下谷広徳寺内の梅雲院に寄宿している。このため、明和三年(一七六六)六月、寺社奉行久世広明に改めて神主職帰役を訴え、赦免となっている。また、文化七年(一八一〇)十月の「氷川神社・東角井家日記」(東角井家文書)には、現大宮市高鼻町鎮座の氷川神社神主触下として飯田左膳の名が見える。
神仏分離は、明治初年に別当新光寺の堯永が復職して神職となり、宮本右京と名乗って社務一切を引き継ぎ、社家の飯田家はその配下に置かれる。「神仏分離に伴う八幡社勧請書」(飯田家文書)によると、明治六年十二月、新光寺と寺世話人惣代は、当社と氷川神社の社領支配を引き渡した代償として、右京から金三百両を受け取っている。以後、社家は宮本家に移り、宮本貴永・宮本澄雄と奉仕している。
明治六年四月に第二四区の郷社に列せられた。同四十年には大字東貝塚字若宮の村社八幡社、大字峯字後の村社氷川社、大字新堀字前の村社神明社、榛松字道内の村社三島神社の四社を合祀して社号八幡神社を峯ケ岡神社と改めた。更に昭和四年に峯ケ岡八幡神社と改称し、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)
峯ヶ岡八幡神社所蔵の文化財
- 木造僧形八幡坐像(付紙本墨書造像願文等三十七点)(埼玉県指定文化財)
木造僧形八幡坐像
この像は、当神社の神体として安置されています。像は応神天皇の霊といわれる「八幡神」が仏(菩薩)の姿に表現されたもので、八幡大菩薩とも呼ばれます。このような仏の姿の神像は、奈良時代から神と仏は同じもので、神は仏が姿を変えてあらわれたとする考えが生まれ、以後そのような説が広められたことにより造られました。像は2枚の檜材の寄木造りで、札盤型台座の上に袈裟を掛け、左手に経巻、右手に錫杖を持って座しています。像・台座・光背は漆による彩色が施され、頭部ははめ込みとなっています。鎌倉時代後期の優れた木造彫刻です。また、胎内には造像時のものと思われる願文など37点の文書が納められていました。(境内掲示より)
峯ヶ岡八幡神社の周辺図