土手千方神社。下野鎮守府将軍修理太夫千方を祀る社
土手千方神社の概要
土手千方神社は、加須市土手にある千方神社です。土手千方神社の創建年代等は不詳ながら、藤原秀郷の六男で下野鎮守府将軍だった修理太夫千方を祀り、江戸期には礼羽村の鎮守社となっていました。明治6年村社に列格、明治40年神明社、天神社、愛宕社、雷電社、諏訪社、天神社を合祀しています
社号 | 千方神社 |
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祭神 | 興玉命、大日孁貴命 |
相殿 | - |
境内社 | 諏訪社、天神社、愛宕社、雷電社 |
祭日 | 元旦祭、春祭り、夏祭り、秋祭り |
住所 | 加須市土手2-9-21 |
備考 | - |
土手千方神社の由緒
土手千方神社の創建年代等は不詳ながら、藤原秀郷の六男で下野鎮守府将軍だった修理太夫千方を祀り、江戸期には礼羽村の鎮守社となっていました。明治6年村社に列格、明治40年神明社、天神社、愛宕社、雷電社、諏訪社、天神社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による土手千方神社の由緒
(禮羽村)
千方社
村の鎮守なり、郡内堤村にもこの神社あり、彼社傳に俵藤太秀郷の六男、修理大夫千方を祀れりと、當社も其類なるべし、金蓮院の持、下六社同じ、
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八幡社
雷電社
神明社
愛宕社
淺間社
天神社
(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による土手千方神社の由緒
千方神社<加須市土手二-九-二一(礼羽字千方)>
鎮座地礼羽は、会ノ川の右岸に位置する。地名は、水平で低い土地を意味するアイヌ語の「ライパ」から生じたという。
社記によれば、当社は俵藤太秀郷の六男修理太夫千方を祀ることからその名が付けられたと伝えるが、現在の主祭神は輿玉命である。
往時の別当は真言宗金蓮院八幡山護国寺が務めていた。
本殿は一間社流造りで明治三年正月に造営されている。本殿内には台座に「三福寺京建仁寺」の墨書がある、千方様と称する束帯彩色座像を奉安する。この像は最近まで金蓮院に置かれ、春秋の祭りの度に氏子が借りに行っていたという。
明治初めの神仏分離により寺の管理を離れて、同六年に村社となり、同四〇年に字裏新田の神明社と字前木村の天神社を合祀した。
境内には大正八年人力車組合で建立した足尾山大神の石碑がある。古くから栃木県にある足尾の神は足の信仰があり、加須人力車組合でも足の壮健なることを祈ったという。これは組合の幹部として活躍した角田元次郎翁を顕彰した碑でもある。
この石碑のほかにも境内には参道に沿っておびただしい数の石碑や石祠が立ち並んでおり、神の加護を求めた当時の人々の心をしのぶことができる。(「埼玉の神社」より)
「加須市の神社・寺院」による土手千方神社の由緒
当神社の創建年月日は明らかでないが、社伝によれば、下野・武蔵両国司に任じられた藤原藤太秀郷(藤原秀郷)の六男、鎮守府将軍修理太夫千方を祀ったと伝えられている。『風土記』によれば礼羽村の鎮守で、金蓮院持ちとされている。
明治六年(一八七三)四月、市佛分離令に伴う社格の制度化によって村社に列し、同四十年三月八日には字裏新田地内の無格社神明社、字本村地内の同天神社、その他愛宕社、雷電社、諏訪社、天神社をそれぞれ合祀している。(「加須市の神社・寺院」より)
境内掲示による土手千方神社の由緒
千方神社は、古くから旧礼羽村(現加須市礼羽)の鎮守様として多くの人の信仰を集めている神社で、祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)をまつっている。
千方神社の社名をもつ神社は、北埼玉郡内では加須市加須、羽生市堤にあり、いずれも祭神は同じである。
神社名の由来については、羽生市堤の千方神社の社伝によれば、平安時代に下野国(現栃木県)の豪族として知られた俵藤太秀郷(藤原秀郷)の六男修理大夫千方をまつったところからこの社名が付いたといい、ここの神社も同じ由来と伝えている。
藤原秀郷は平安時代の前期、下野国の押領使となり、天慶三年(九四〇年)に起きた平将門の乱には、平貞盛と協力して将門を打ち破り、その功により下野守となった豪族で、当国の武士団の小山氏、結城氏、下河辺氏などをはじめ、多くの武士団の祖となっている。(加須市掲示より)
土手千方神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
- 「加須市の神社・寺院」