金蓮院。加須市礼羽にある真言宗智山派寺院

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金蓮院。地頭設楽兵庫頭貞清が開基

金蓮院の概要

真言宗智山派寺院の金蓮院は、大日山護国寺と号します。金蓮院は、地頭設楽兵庫頭貞清が開基となり寛永2年(1625)に創建、俊宗法印(寛文13年1673年寂)が開山したといいます。明治6年には礼羽学校が当寺に開校していました。

金蓮院
金蓮院の概要
山号 大日山
院号 金蓮院
寺号 護国寺
本尊 大日如来立像
住所 加須市礼羽397-1
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



金蓮院の縁起

金蓮院は、地頭設楽兵庫頭貞清が開基となり寛永2年(1625)に創建、俊宗法印(寛文13年1673年寂)が開山したといいます。明治6年には礼羽学校が当寺に開校していました。

新編武蔵風土記稿による金蓮院の縁起

(禮羽村)
金蓮院
新義眞言宗、正能村龍花院末、八幡山護國寺と號す、本尊阿彌陀開山俊宗、寛文十三年八月示寂す、開基は地頭設楽甚三郎が先祖、設楽兵庫頭貞清、卒年法謚等、前村香積寺の條に出せり(寛永八年三月五日卒す、法謚洞林院葉山昌奕と號す)、(新編武蔵風土記稿より)

「加須市の神社・寺院」による金蓮院の縁起

当寺は、寛永二年(一六二五)香積寺と同じく、地頭設楽兵庫頭貞清が開基し創建したものである。貞清は、その後寛永八年三月五日六十七歳で逝去している。開山は法印俊宗といい、寛文十三年(一六七三)八月の入寂である。現在の本堂は享和元年(一八〇一)の火災により焼失したものを、文化十一年(一八一四)に再建したものである。その後の寺歴は不明であるが、学制頒布に伴って明治六年(一八七三)二月香積寺に開設された馬内学校が、同年六月二十四日金蓮院に移され、礼羽学校として開校している。
境内には子育乳出の守護神、鬼子母神を祀った小堂がある。元和八年(一六二二)のころ、当地の地頭設楽氏の家老雄槌多助には子供が無く憂いていたが、殿様のお供で知行地の見巡りに出かけ金蓮院に立ち寄り、鬼子母神に祈願をかけたところ、間もなく妻が懐妊し男子を出生したが、妻は病死してしまった。途方に暮れた彼は乳なしになってしまった我が子を抱いて鬼子母神に通夜し、住職に乳出しの護摩を請い、そして満願の日になると彼の両乳から乳汁が出るようになって無事に子供は成長した。
その後、子供は立身出世し、名を雄乳鬼子郎と改めた。承応元年(一六五二)に、江戸では流行病が発生し、生れたばかりの赤子から十歳ぐらいの子供が多く死亡した。雄乳鬼子郎はこの流行病から多くの子供を救うため、金蓮院の境内にある鬼子母神の神木銀杏で腰札を作り、昼夜巡行してこの札を授けて数万の人を救ったという話が残っている。(「加須市の神社・寺院」より)


金蓮院の所蔵の文化財

  • 延命地蔵尊像(加須市指定文化財)

延命地蔵尊像

(禮羽村)
地蔵尊七十八センチメートル、頭長十五センチメートル、肩幅二十センチメートル、製作者武州神田鍋町二丁目太田駿河守藤原正儀制作、時代、正徳五年(一七一五年)と云う。
松本氏の先祖が、仏道に入り京都の知恩院にて僧位を得、郷土の衆生済度の悲願から托鉢により資を得、約七十二キロもある青銅の地蔵尊を買い求めて帰郷し、約十二キロ四方における幼児の戒名を集めて、その霊を供養した。(家族教育委員会掲示より)

金蓮院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「加須市の神社・寺院」