不動岡稲荷神社。不動岡の鎮守として文禄年間に創建
不動岡稲荷神社の概要
不動岡稲荷神社は、加須市不動岡にある稲荷神社です。不動岡稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、不動岡の鎮守として文禄年間(1593-1596)より稲荷社を上・中・下の三カ所に奉祀していたと伝えられ、江戸期には稲荷三社が不動岡村の鎮守として祀られていました。明治41年稲荷三社を、当社に合祀しています。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷社、八幡社、稲荷社、神明社、稲荷社、弁天社 |
祭日 | 初午祭3月初旬、夏越祭8月、秋祭り10月、星祭り12月冬至 |
住所 | 加須市不動岡1-4-16 |
備考 | - |
不動岡稲荷神社の由緒
不動岡稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、不動岡の鎮守として文禄年間(1593-1596)より稲荷社を上・中・下の三カ所に奉祀していたと伝えられ、江戸期には稲荷三社が不動岡村の鎮守として祀られていました。明治3年村社に列格、明治41年稲荷三社を、当社に合祀しています。
新編武蔵風土記稿による不動岡稲荷神社の由緒
(不動岡村)
稲荷社三宇
共に鎮守にして、總願寺持、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による不動岡稲荷神社の由緒
稲荷神社<加須市不動岡一-四-一六(不動岡字本村)>
不動岡は会ノ川(旧利根川)左岸の自然堤防上に位置し、不動明王を安置する総願寺の門前町である。この地はかつて岡村と称していたが、長暦三年旧利根川氾濫の際、不動尊が流れ着き、堂を造り安置したことから不動岡と呼ばれるようになった。
当社の創立は、口碑によると字喜多秀家の家臣であった岡家が、関ケ原の戦いに敗れて当地に住み着き、同時に岡家の守り神である稲荷神社を杷ったことによるという。
しかし、「稲荷社合祀記念碑」(明治四三年九月)によると、創立年代はこれよりさかのぼり、不動岡の鎮守として文禄以来稲荷社を上・中・下の三カ所に奉祀し、春秋の祭事を行っていたが、明治四一年政府の命令により三社を中の稲荷社に合祀したという。また『明細帳』には「明治三午年三月中村社ニ申立済同四十一年二月十八日字根付無格社稲荷社字不動島同稲荷社ヲ合祀ス」とあるが、このうち字不動島の稲荷社は昭和一〇年ごろ田氏子の要請により旧地に戻された。神仏分離以前の別当は稲荷社三社共に総願寺が務めていた。
祭神は字迦之御魂命であり、一間社流造りの本殿の内には稲荷大明神像を安置し、
併せて天保四癸巳年の木監建立棟札を蔵している。(「埼玉の神社」より)
「加須市の神社・寺院」による不動岡稲荷神社の由緒
当神社の創建年月日は明らかでないが、不動明王像が当地に流れつき。これにより堂宇が建立され、不動明王信仰が広くこの地方一帯に広まっていった。すなわち、不動岡村が岡村と称したころに付近にあった一名「岡堂の稲荷」を当地に勧請したのが始まりと伝えられている。『風土記』によれば不動岡村の鎮守で、総願寺持ちとされている。明治三年(一八七〇)三月、社格の制度化によって村社に列し、同四十一年二月十八日には、字根付地内の無格社稲荷社、及び字不動島地内の同稲荷社の二社を合祀している。現在の拝殿は、明治三十九年土地の土木請負師田村重兵衛が、東武鉄道請負工事終了を記念して造営したものである。
昭和十九年(一九四四)十二月七日には、神社名変更の許可により稲荷社を稲荷神社に改称している。(「加須市の神社・寺院」より)
不動岡稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
- 「加須市の神社・寺院」