猫の足あとによる加須市・埼玉県・首都圏の寺院、神社など寺社案内

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玉嶋山総願寺。加須市不動岡にある真言宗智山派寺院

総願寺の概要

真言宗智山派寺院の総願寺は、玉嶋山不動院と号します。総願寺は、弘法大師の甥の智證大師が製作した不動明王像が、長暦3年(1319)当地に流れ着いたことから不動堂を建立、当地を岡村から不動岡村と村名を改めたといいます。元和2年(1616)に高野山の総願上人が不動堂の別当寺として総願寺を創建、成田山新勝寺高幡不動金剛寺とともに関東三大不動とも称されています。関東三十六不動30番です。また、当寺の黒門は忍城の北谷門を移築したもので加須市文化財に指定されています。 総願寺

総願寺の概要
山号 玉嶋山
院号 不動院
寺号 総願寺
本尊 大日如来像
住所 加須市不動岡162
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



総願寺の縁起

総願寺は、弘法大師の甥の智證大師が製作した不動明王像が、長暦3年(1319)当地に流れ着いたことから不動堂を建立、当地を岡村から不動岡村と村名を改めたといいます。元和2年(1616)に高野山の総願上人が当地に来寺、不動堂の別当寺として総願寺を創建、成田山新勝寺高幡不動金剛寺とともに関東三大不動とも称されています。

新編武蔵風土記稿による総願寺の縁起

(不動岡村)
不動堂
本尊不動は坐像二尺五寸餘、矜迦羅制枳迦も二尺餘、共に智證大師の作、又弘法大師の作と云、縁起に云此像古へ洪水の折から、當村の南を流るゝ會ノ川の岸に流れよりしを、尋常の作物に非ずとて、土人取上げ、堂宇を經營して當所に安置せり、これ長暦年中のことゝも、又承暦年中のことゝもいへり、夫より村名の改りしと云ことは前に辨ぜり、是より遥の後、永禄の頃爭職の地となり、堂宇殆ど荒廢せしを、御當代に至て再造ありしなど云事を縁起にのせたれど、全文は後世になりたるものにて、前後首尾とゝのはざること多ければ、其あらましを記せり、此外にも附會の話あれど、うきたることなれば、悉くにはとらず、
別當總願寺。新義眞言宗、上羽生村正覺院末、玉嶋山と號す、開山宥智承應四年に寂す、本尊大日、
寺寶劔一振。長さ三尺二寸、幅は柄の所にて一寸、先にては一寸一分程、無二無三の四字を彫れり、羽生城主木戸伊豆守忠朝の奉納せしものなりと云、(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による総願寺の縁起

不動ケ岡不動尊総願寺の由来
仁和二年(八八六年)秋、第五十八代光孝天皇は重い病にかかられ、どんな名医、妙薬も少しも効目がなく、日に日に御重態になられるはかりであった。そこで三井寺の開山、智證大師(弘法大師の甥)が、みことのりにより病気平癒を不動明王に御祈願申し上げたところ、たちどころに病気がなおられたので天皇は大師に不動明王の御尊像を刻ませ、同年冬、宮中の仁寿殿で開眼供養し、紫宸殿に安置して歴代天皇の守り本尊とされた。ある時、宮中の役人が明王の宝剣を持ち出して自分のものにしようとしたので明王を御守護申し上げていた堂宇は、ある夜密かに明王を背負って生まれ故郷の吉見領へ逃れ仮堂を建てて安置した。
長暦三年(一、三一九年)大洪水があり、付近一帯は泥海と化し御尊像はその流れの中を漂い、この地へおつきになられた。里人達は御尊像の尊さに一同ひれふして、明王をおまつりし当時岡村と言われていた地名を不動ケ岡と変えた。
その後元和二年(一、六一六年)に高野山の総願上人がこの地に来られ不動明王の御霊験を賛えて玉嶋山総願寺を建立し、明王を御守護申し上げた。
以来今日まで不動明王を尊崇して参詣する善男善女の数多く、関東三大不動明王の随一として、信仰を集めている。(総願寺掲示より)

「加須市の神社・寺院」による総願寺の縁起

仁和二年(八八六)第五十八代光孝天皇は、大変重い病にかかった。ある日、天皇は日頃帰依していた智証大師を呼び、不動明王に病気平癒を祈願するよう命じた。大師は命を奉じ三七日間食を断って天皇の病気平癒を祈願した。その結果、天皇の病気は全快したので、天皇は大師に不動明王を彫刻するよう命じたという。大師の不動明王像は同年初冬、仁壽殿において開眼供養され、この像を紫宸殿に安置して、以降、歴代天皇の守護仏となった。ある時、殿上人の一人がひそかに天国の宝劍といわれたこの不動明王の剣を盗み取ろうとした。すると不動明王は堂守の夢枕に立ち、その旨を堂守に告げた。堂守は不動明王を守るためにこれを背負い、自分の故郷である武州吉見領へ逃れ、その後、そこへ仮堂を建てて安置した。ところが長暦三年(一〇三九)大洪水が起こり、吉見領一帯もその災禍にあい、不動明王像も流れ出て、往時丘状になっていた岡村に流れ着いた。そして当地の村人がこれを拾い上げて当地に安置した。この岡村は、その後不動尊信仰の繁栄に伴い不動岡と改め、さらに法印源信が、元和二年(一六一六)別当総願寺を建立した。源信(字は総願)は寛文三年(一六六三)の入寂である。
寺宝の一つとして倶利伽羅不動剣を所蔵している。台座は鉄製、龍は銅製で、「羽生領不動岡村玉島山不動院総願寺元文四年佐野天明長谷川弥市藤原秀作之」の銘があり、徳川八代将軍吉宗の奉納品である。
明和八年(一七七一)十二月十四日の火災にかかり、客殿その他、堂塔を悉く焼失した。その後、第五世法印秀意が当寺に入り、爾来、堂宇の再興に尽瘁し、安永六年(一七七七)三月、本堂・庫裡等の再建を行った。また、法印秀意は、本尊の霊験の布教活動にも努めたので民衆の信仰熱が高まり、近隣地域からの参詣者も雲集し、境内は大いに盛況を呈したといわれている。天保十四年(一八四三)九月には、現在の本堂(不動堂)が第十二世法印証阿代に建立されている。
明治十六年(一八八三)不動尊附近の民家から出火した火災は折からの強風も加わって大火となり、不動尊門前町一帯の民家をことごとく類焼した。この火災によって仁王門及び黒門が焼失した。その後、仁王門は、明治二十三年(一八九〇)信徒の浄財を得て再建されたが、黒門は、当所の土木請負師田村重兵衛が忍城取り壊しの際、払い下げを受けた城門(北谷門)を、明治二十二年一月一日寄進し移築したものである。忍城の城門で、現存する唯一の門である。総欅造りの一枚板の門扉で、天保年間(一八三-四四)の建造と推定されている。
明治五年の学制頒布の際は、不動岡・岡古井・町屋(現羽生市)・下三俣の四カ村を連合して一学校区域とした不動岡学校が明治六年(一八七三)三月十日、総願寺を仮用校舎として開校している。また、本堂の西側に当寺第十四世法印蓮舟代に再建と伝えられる参龍堂があるが、これを仮用して明治二十六年五月、加須・不動岡・三俣・礼羽四カ町村組合立の加須高等小学校が、同三十一年十一月には不動岡女子裁縫伝習所(後の私立埼玉女学校の前身)が、それぞれ開校されている。また、この参寵堂に安置されている不動明王像は、第四世法印秀精代の宝永三年(一七〇六)、江戸両国の回向院で出開帳が行われた時、徳川五代将軍綱吉から拝領したと伝えられる尊像で、同時に永世仏供料朱印百石を賜わったといわれる。また、本堂前に建てられている記念碑は、明治三十四年(一九〇一)七月第十五世山口定道和尚代に、当時の中央新聞社が全国神社仏閣に対する尊信の趨向を投票により決定した際、当寺が全国神仏信者数第一位となった時の記念碑である。境内の大石燈寵は、この時、同新聞社から寄進された常夜燈である。現在も開運厄除・商売繁盛・交通安全・火防の不動尊として多くの人々の中に幅広い信仰をもち、関東三大不動のうち随一の不動尊としての歴史を伝えている。(「加須市の神社・寺院」より)


総願寺所蔵の文化財

  • 總願寺不動堂(加須市指定有形文化財)
  • 倶利伽羅不動剣(加須市指定有形文化財)
  • 芭蕉翁句碑(加須市指定史跡)
  • 黒門(加須市指定有形文化財)
  • 散蓮華模様青石塔婆(加須市指定有形文化財)

總願寺不動堂

總願寺不動堂は、江戸時代の天保年間に建てられた加須市における代表的な木造建築物である。桁行五間、梁間五間の市内では数少ない大規模な江戸時代の社寺建造物である。
設計・建築は、羽生市川俣の三村正利である三村家は、羽生で代々宮大工を受け継いできた家柄で、明治二五(一八九二)年に八八歳でなくなるまで数多くの社寺建築に携わった。
三村家に伝わる不動堂の側面図は、羽生市の指定文化財になっている。
主な建築物としては市内三俣の龍蔵寺本堂(加須市指定文化財)、群馬県板倉町の雷電神社本社(群馬県指定文化財)が知られている。(加須市教育委員会掲示より)

倶利伽羅不動剣

台座は鉄製で、龍及び剣は銅製で、高さは七十六cmである。剣には、羽生領不動岡村玉島山不動院惣願寺、元文四年九月吉日佐野天明町住大工長谷川弥市藤原秀勝作之とあり、一七三九年八代将軍徳川吉宗の時代の奉納品と考えられる。
倶利伽羅不動剣は、岩の上に立ててある剣に不動明王の化身である龍が巻きつき、剣を呑みこもうとしている様子を示している。(加須市教育委員会掲示より)

芭蕉翁句碑

松尾芭蕉の百五十回大遠忌追善供養のために建てられた句碑で、天保十四年(一八四三)の銘がある。
この付近に住んでいた芭蕉の門弟たちが師を偲んで建てたもので、芭蕉の名句の「曙行くや廿七夜も三日の月」をあげている。
芭蕉は、正保元年(一六四四)三重県上野市に生まれた。寛文十二年(一六七二)郷里で処女選集「見おほひ」を編し、江戸へ行った。元禄二年(一六八九)「奥の細道」の大旅行を志し、江戸を出発して元禄七年(一六九四)五十歳でこの世を去るまでの間、「猿蓑」「炭俵」など多くの選集を残した。(加須市教育委員会掲示より)

黒門

この黒門は、忍城の北谷門を移築したものである。忍城は文明年間(一四六九〜八六)に築城され明治六年(一八六八)に取り壊されるまでの約四百年間続いた。
黒門は、行田から熊谷に抜ける県道工事を請け負った不動岡在住の土木請負師田村重兵衛に払い下げられ、重兵えいが日頃進行する總願寺に寄進したものである。黒門は総欅造りで、門扉は一枚板からできている。門扉上部の欄間の構造が忍城主松平氏の菩提寺である桃林寺本堂の欄間と同様であることから天保一三年(一八四二)の建造と伝えられる。忍城の現存建造物としては高麗門(行田市)とこの黒門のみである。(加須市教育委員会掲示より)

総願寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「加須市の神社・寺院」