根古屋前玉神社。玉敷神社の旧鎮座地、旧称久伊豆社
根古屋前玉神社の概要
根古屋前玉神社は、加須市根古屋にある前玉神社です。根古屋前玉神社の創建年代等は不詳ながら、玉敷神社は正能から当地への遷座を経て、寛永4年(1627)頃現在地へ遷座したことから、旧地を尊んで祀り、前の玉敷神社から”まえたま”神社とも称されるようになったのではないかといいます。江戸期には久伊豆社と称し、根古屋村の鎮守として祀られていましたが、明治維新後前玉神社を改めています。
社号 | 前玉神社 |
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祭神 | 前玉姫命 |
相殿 | 大日孁貴命 |
境内社 | 天神社、疱瘡社 |
祭日 | 大祭4月10日、夏祭り7月28日 |
住所 | 加須市根古屋476-1 |
備考 | - |
根古屋前玉神社の由緒
根古屋前玉神社の創建年代等は不詳ながら、玉敷神社は正能から当地への遷座を経て、寛永4年(1627)頃現在地へ遷座したことから、旧地を尊んで祀り、前の玉敷神社から”まえたま”神社とも称されるようになったのではないかといいます。江戸期には久伊豆社と称し、根古屋村の鎮守として祀られていましたが、明治維新後前玉神社を改めています。境内社の天神社は、騎西城内で祀られていたもので、廃城後に当地へ遷されたものです。
新編武蔵風土記稿による根古屋前玉神社の由緒
(根古屋村)
久伊豆社
村の鎮守なり、昔騎西町場久伊豆社のありし蹟にてこゝより正能村へ移り、夫より今の騎西町場へ移れり、其蹟なれば古宮迹と唱へ小社を置り、神社河野隠岐の持、或傳へに【延喜式】埼玉神社とあるは、當社のことなりと、社地古松老杉枝を交へ繁茂せるさま、いかにも古社なるべけれど、式内なることは當社はさらなり、この邊の口碑にも遺らず、騎西町場久伊豆社の條併見るべし、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による根古屋前玉神社の由緒
前玉神社<騎西町根古屋四六七(根古屋字道下)>
根古屋は、古くはい府開城(根古屋城)のあった所で、私市城士卒の寝小屋があり、それが転じて村名となったといわれ、当社の北西方向に城跡がある。
当社は延喜式神名帳に「前玉神社二座」とある社と古くからいわれている。氏子は、この地は玉敷神社の旧鎮座地の一つであり、玉敷神社は正能からこの地に移り、更に現在の騎西に移されたが、旧地を尊んで祀ったのが当社であるという。このことから玉敷神社の前の社、すなわち前玉神社とも称すると言い伝えている。
社号は、古くは玉敷神社の旧称と同様に久伊豆社と号し、玉敷神社社家河野家が代々奉仕していた。やがて同社神職の新槙家がこれを継ぎ、今日に至っている。
祭神は前玉姫命・大日孁貴命の二柱であり、殿内には元文五年に「根古屋村十四人女子共」が納めた金幣を祀っている。
明治四〇年、前耕地片原の神明社が当社覆屋内に合祀されたが、現在も片原の地には大神宮と称する小祠が祀られている。
境内には疱瘡神社と、私市城の鎮守で城が廃された後は村民持ちとなった天神社が祀られている。
社殿の造営年代についての記録は現在残っておらず、昭和二四年に拝殿向拝部を修復していることだけが知られる。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による根古屋前玉神社の由緒
当社は”まえたま神社”とも呼ばれ、前玉姫命(さきたまひめのみこと)を主祭神とし、幸いをもたらす神として崇敬される。
江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」によれば、当社付近は「元ノ久伊豆」と記されている。久伊豆とは玉敷神社のことであるが、騎西領内でたびたび出火するため、この地に鎮座していた同神社が、類焼をおそおれて騎西の地へ遷座したという。当社が玉敷神社の移転後に祀られたものか、それ以前から鎮座するのか定かではない。
境内には菅原社(天神社)を祀るが、これは騎西城内にあった天神社を移転したと伝えられる。また、境内の疱瘡社は、疱瘡(天然痘)にかかったときお参りすると治るという。(加須市教育委員会掲示より)
根古屋前玉神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)