玉敷神社。延喜式内社、久伊豆神社の総社
玉敷神社の概要
玉敷神社は、加須市騎西にある玉敷神社です。玉敷神社の創建年代等は不詳ながら、成務天皇6年(13)に武蔵国造兄多毛比命が創祀したとも、文武天皇の大宝3年(703)東山道鎮撫使多治比真人三宅麿が創祀したとも伝えられ、延長5年(927)の延喜式神名帳に記載される延喜式内社です。かつては正能に鎮座していましたが、上杉謙信が小田原北条氏との戦で当地へ出兵した際、兵火に罹り焼失し、根古屋山根ノ城大手門前(前玉神社鎮座地)へ遷座再建、寛永4年(1627)頃に当地へ遷座しました。玉敷神社久伊豆大明神と称され、埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の総鎮守として崇敬され、明治維新後には、明治5年村社に列格、大正13年県社に列していました。また境内の摂社宮目神社は、延喜式式内社ともいわれます。
社号 | 玉敷神社 |
---|---|
祭神 | 大己貴命(大国主神) |
相殿 | 天照大神、豊受大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊・軻遇突智神 |
境内社 | 八坂神社、松尾神社、宮目神社、白山神社、稲荷神社、琴平神社、神馬社、天神社 |
祭日 | 例祭12月1・2日、夏季大祭7月14・15日、春季大祭5月5日 |
住所 | 加須市騎西552-1 |
備考 | - |
- 玉敷神社鳥居
- 玉敷神社境内参道
- 玉敷神社社殿
- 玉敷神社神楽殿
- 境内社八坂神社
- 境内社松尾神社
- 境内社辨天社
- 玉敷神社境内社
- 境内社宮目神社
- 境内社白山神社
- 境内社稲荷神社
- 境内社琴平神社
- 境内社神馬社
- 境内社天神社
- 玉敷神社のフジ
- 玉敷公園
玉敷神社の由緒
玉敷神社の創建年代等は不詳ながら、成務天皇6年(13)に武蔵国造兄多毛比命が創祀したとも、文武天皇の大宝3年(703)東山道鎮撫使多治比真人三宅麿が創祀したとも伝えられ、延長5年(927)に公布された延喜式神名帳に「久伊豆大明神」と記載される古社です。かつては正能に鎮座していましたが、上杉謙信が小田原北条氏との戦で当地へ出兵した際、兵火に罹り焼失し、根古屋山根ノ城大手門前(前玉神社鎮座地)へ遷座再建、徳川家康の関東入国後、火災が頻発したことから、私市城主大久保加賀守の家臣達が謀り、寛永4年(1627)頃に当地へ遷座しました。玉敷神社久伊豆大明神と称され、埼玉郡の総鎮守・騎西領48ヶ村の総鎮守として崇敬され、当社の獅子頭は、久伊豆神社が祀られている県内外190余地区を廻り、各地でお迎えの「お獅子様」が行われています。明治維新後は、明治5年村社に列格、大正13年県社に列していました。
境内掲示による玉敷神社の由緒
当神社は第四十二代文武天皇の大宝三年(七〇三)、東山道鎮撫使<多治比真人三宅麿>により創建されたと伝えられ(一説に第十三代成務天皇六年(一三六)、武蔵国造<兄多毛比命>によるという)、平安時代第六十代醍醐天皇の延長五年(九二七)に公布された、律令の施行細則「延喜式」の神名帳にその名を載せる、いわゆる「延喜式内」の由緒ある古社である。
以後、幾多の歳月を経て戦国時代に至り、天正二年(一五七四)越後の上杉謙信が当国に出兵の折り、当時正能村(現当町正能)に在った当神社はその兵火にかかり炎上、古文書・社宝など悉く失われた。従って、それ以前の神社の歴史は明らかではない。
江戸時代に入り、寛永四年(一六二七)の頃、騎西城主<大久保加賀守忠職>によって現在の地に遷座、以来明治維新に至るまで、当神社は「勅願所玉敷神社久伊豆大明神」と称されて、埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、また騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇され、厄除を始めとするその多くの御神徳は厚い信仰を集めていた。
この広範な領域に及んだ信仰は今日なお受け継がれ、二百年以上の昔から伝わる当神社独特の祓えの行事「お獅子様」を行う所は、当騎西町を中心とする県東北部の二十三の市町村並びに群馬・茨城用両県の一・二の町の大字小字の地区にまで広がっている。
また、当神社には三百年を超える伝統を持ち、江戸神楽の原形を伝える国指定(平成二十年)重要無形民俗文化財「玉敷神社神楽」が保存され、年四回、祭礼の折に素朴で優雅な舞を披露している。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による玉敷神社の由緒
(騎西町場)
久伊豆神社
當社は騎西領中の總鎮守にして古社なり、【東鑑】に建久五年六月晦日、於武蔵國大河戸御厨久伊豆宮、神人喧嘩出来云々と見えたるは、こゝの事なるべし、又【延喜式】神名帳に載る所、埼玉郡四座の内、玉敷神社祭神大己貴命とありて、今何れの社たるを傳へず、岩槻城内久伊豆神社あり、其餘郡内所々に久伊豆社と唱ふるもの多くあれど、何れもさせる古社とも思はれざれば、若くは式に見え、【東鑑】にも沙汰あるは當社ならんか、されど千百年の古へを後の世より論ずれば、如何にともいひがたし、久伊豆と改めしは、騎西郡内にありて騎西伊の語路相通ずれば、唱へ改めしといへど、是も附會の説とをぼしく、社傳等には據なし、又神主の傳へには當社元正能村にありしが、上杉謙信當所へ發向の時兵火に罹り、彼正能村より飛て根古屋村に来り、慶長年中當所へ移せりと、彼根古屋は現に城のありし地にして、兵火もこの城を焼んが爲なれば、殊更に火中の根古屋へ飛来りしと云は、無稽の説と思はる、又當社往古は根古屋村にありて、夫より正能村に移り、後此地に移りしならんに、正能・根古屋の兩村に今も古宮蹟と呼べる除地ありて、當社神主の持なる由、又傳へに當社は宣化天皇八代の後胤、從五位上木工頭丹治貞成の靈社なり、貞成の子峰成私市黨の始祖なり、後略して私の黨と唱ふ、此人の弟を貞峯と云、丹治黨の始祖なり、略して丹の黨と云、此二黨の子孫分れて武州に多し、其子孫の居所多く、此神社を祭れりと、されば峯成の父貞成を祭れりと云こと、所謂あるに似たり、
神宝猿田彦面一。春日の作と云、やつれたるさま古物なることは、論なけれど銘はなし、
獅子面一。同作と云、これも銘はなけれど普通のものには非ず、古物なること論なし、
末社。
宮目神社、祭神大山祇命、是も式内の神社にて、昔は免田もあり、當社後背の山林畑は、則其免地なりしといへど、證とすべきことなし、又百間村姫宮神社を式内宮目神社なりとも傳ふれど、是も據はなし、猶百間村姫宮神社の條合せ見るべし、
伊勢宮、伊勢下宮、八幡香取合社、稲荷、松尾、三峯、五光権現、牛頭天王、辨天、元宮、伊豆権現、
神主河野隠岐。社地の内に居れり、藤原姓にして吉田家の配下なり、先祖周防守より當代に至るまで十七代といへど、舊記等更になければ、此外のこと知るべからず、(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による玉敷神社の由緒
玉敷神社<騎西町騎西四五二二(騎西字高遠)>
当社は延喜式内の古社であり、大己貴命を主神として奉斎し、明治維新以前は郡中の総鎮守として騎西領四八ヶ村の氏神であった。
社伝に成務天皇の六年(一三六)、兄多毛比命が武蔵国造に任ぜられた時、出雲の大神の分霊を祀る。あるいは文武天皇の大宝三年(七〇三)、多治比真人が東山道鎮撫使として、当国に下向した折に祀ったとの伝えもあるが、その創立を明らかにすることは出来ない。
『吾妻鏡』に「建久五年六月晦日於武蔵国大河戸御厨久伊豆宮神人喧嘩出来云々」とある。大河戸は今の松伏町といわれるが当社との関係は不明である。このころ、当地にあった武士の棟梁の一人と思われる河野家の祖河野周防守が当社の神主となる。当社の旧社地正能にある龍花院は源頼朝の修営であり、(『風土記稿』)当地の武士団が頼朝を援けた報賽によるといわれる。また河野家には往時の武具が秘蔵されているなど、これを裏付けている。
当社は『要用集』(享保期、正神主河野長門守著)によれば、元は正能村にあったが、上杉謙信の兵火に罹り焼失、その後根古屋山根ノ城大手門前に移ったとある。
永禄五年(一説に六年)上杉謙信の私市城攻略の際は兵火を免れ、後天正二年の城攻略の折正能の地は焼き打ちに遭い、当社も焼失、後に私市城(山根ノ城ともいう)前に移転した事は、大久保忠職が城主の時代に作られた「絵図」によって明らかである。
大手門前に鎮座数年の後、域内にしばしば火災が発生した事から、城の重臣たちが憂慮し、家老が江戸にあった城主大久保加賀守に伺いをたて、元和四年ころ現在地へ移転鎮座したものである。このように『要用集』の記録が正しいのであるが、『風土記稿』で、社の焼失を永禄五年の謙信による私市城攻略の際の出来事として以来、移転の順序を間違えて伝えるものもある。
慶長九年以来私市城の城主となった大久保加賀守忠常に次いで城主となった忠職は、社領田畑七石を従前の通り認め、加えて新田古宮領(旧社地正能にあり供面地と呼ばれる)二反二畝歩を、新たに寄進している。(社領寄進状・寛氷四年二月一日)
寛文一二年三月半ばに、当社の神が姿を現し毎夜光を発するという事が起こる。光は馬に乗った人の形であり(当社の神使は葦毛の馬とされていた)、吉田家に伺いをたてたところ久伊豆大明神・大己貴命であるとの切紙が出る。
また、寛文のころ、山内にあるあさだの木(カバノキ科落葉喬木)上部より水が噴出し、諸病に効ある神水であるとして受ける者が多く神水信仰が起こり新たに宮域内に御井を掘り信者に分けた。これから参詣者が沐浴し、厄を祓う御神湯と呼ぶ潔斎湯が境内に設けられた。
元禄七年正月の書上に除地弐町九反余、内五反八畝歩宮地とあり、正殿(本殿)の大きさは二間に三間ノダレ造(二間・三間の平造り)とし、祭神については三戸前中央久伊豆大明神・大己責命、左方鷲宮大明神、右方赤城大明神とある。
宝永三年社殿を再営し、宗源宣旨により正一位の神階を受ける。
「享保四歳己亥三月太々御神楽執行有願主騎西町講中」と「享保一九年四月二日に永々太々神楽執行騎西領惣産子他領信心願主大勢助力初候也」の文書(要用集)があり、後年の玉敷永続太々神楽講社の始まりと思われる。
文化二年の神道裁許状に「久伊豆大明神大宮司土師盛芳」とあり、代々河野姓が続く中に土師の姓がある。これは北葛飾郡の鷲宮神社との関係でもあるのか明らかに出来ない。
文化五年五月二一日に吉田家から神道裁許状(神楽役)が出ている。同文四通が残っているが、いずれも青木姓であり正能の者であるという。現在も玉敷神楽は正能の人の父子相伝である。
現在も北は群馬県上福島、南は蓮田町まで行われる獅子回し行事は、古くは一頭の獅子を神霊の標としたため、行事の重複を避けるためと思われる「お獅子疋日簿-文政一一年」があり、このころに獅子信仰が定着したものと考えられる。
当社は騎西領四八カ村の総鎮守であったが、明治に至りいわゆる一村一社制により騎西町を氏子地域とし、明治五年郷社となり、大正一三年県社となった。(「埼玉の神社」より)
玉敷神社所蔵の文化財
- 玉敷神社神楽(国指定重要無形民俗文化財)
- 玉敷神社算額(市指定有形民俗文化財)
- 神楽講の大絵馬(市指定文化財)
- 三十番神縫物図(市指定文化財)
- 玉敷神社文書(市指定文化財)
- 玉敷神社神楽殿(市指定文化財)
- 玉敷神社のフジ(県指定文化財)
- 玉敷神社のいちょう(市指定文化財)
玉敷神社神楽
江戸神楽の源流をなすといわれる玉敷神社神楽。素朴な中にも、雅な舞を伝える。
この神楽の発生は定かでないが、正保(一六四四~四八)の元号を記した面や、享保四年(一七一九)に神楽を奉納した記録がある。また、古く当神社は正能地区に鎮座しており、その氏子が連綿と神楽師をつとめている。このことから、その成立は江戸時代初期まで遡るものであろう。
演目は番外を含め十七座。題材は神話によるものや、演劇的な舞で構成される。楽は笛・太鼓・羯鼓をもちいる。(加須市教育委員会掲示より)
玉敷神社のフジ
このフジはノダフジの一種で、樹齢は四〇〇年と推定される。幹回り約四・八メートル、枝張り約七〇〇平方メートルにも及ぶ、県内でも有数の巨木である。
この木は、戸室の若山家にあったものを「騎西の町に観光資源を・・・」という町商店会有志の度重なる要請により、昭和八年に玉敷神社に奉納されたものである。
フジは町のシンボルとして多くの人に親しまれ、昭和五十年に町制施行二十周年を記念して騎西町の花に制定された。
「玉敷神社の大藤」としてその名が知られ、花房は一メートル余りにも達する。ほのかに漂う芳香は、見る者の心を癒してくれる。(加須市教育委員会掲示より)
玉敷神社算額
社殿に奉安される算額は、和算の指導者であった都築利治の門人、堀越佐平らによって大正四年に奉納されたものである。(加須市教育委員会掲示より)
神楽講の大絵馬
弘化四年(一八四八)、神楽講の人々によって奉納、神楽講を題材にしたものは、全国的にも珍しい。(加須市教育委員会掲示より)
三十番神縫物図
寛文年間(一六六一~七三)の奉納。三十柱の(加須市教育委員会掲示より)
玉敷神社文書
騎西城主大久保忠職の寄進状など、四八三点の古文書を伝える。(加須市教育委員会掲示より)
玉敷神社神楽殿
天保七年(一八三六)の建立。三方吹き抜け式の茅葺き建築。(加須市教育委員会掲示より)
玉敷神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)