三俣諏訪神社。加須市諏訪の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

三俣諏訪神社。大岡土佐守政春が上諏訪勧請

三俣諏訪神社の概要

三俣諏訪神社は、加須市諏訪にある諏訪神社です。三俣諏訪神社は、龍蔵寺を創建した教蔵上人が怪物(白龍)を退治した後、文和4年(1355)に龍の尾が止まった所に利根川(現会の川)堤防を祈願して諏訪社(辨財天とも云う)を勧請したと伝えられます。正徳4年(1714)には大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて上社を勧請、諏訪下社に倣って摂社主夜神社を勧請、天明二年琴平・秋葉・榛名合殿社を祀ったといいます。明治5年村社に列格、明治40年字深沼の伊奈利社、字中島の白山社を合祀しています。

三俣諏訪神社
三俣諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 健御名方命
相殿 事代主命・字迦之御魂命・菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命
境内社 琴平・小御岳・浅間大神、天神
祭日 例大祭8月27日
住所 加須市諏訪1-8-4
備考 -



三俣諏訪神社の由緒

三俣諏訪神社は、龍蔵寺を創建した教蔵上人が怪物(白龍)を退治した後、文和4年(1355)に龍の尾が止まった所に利根川(現会の川)堤防を祈願して諏訪社(辨財天とも云う)を勧請したと伝えられます。正徳4年(1714)には大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて上社を勧請、諏訪下社に倣って摂社主夜神社を勧請、天明二年琴平・秋葉・榛名合殿社を祀ったといいます。明治5年村社に列格、明治40年字深沼の伊奈利社、字中島の白山社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による三俣諏訪神社の由緒

(三俣村)
諏訪辨天合社
諏訪社は正徳四年九月、大岡土佐守政春の勧請にして、村の鎮守なり、光徳院の持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三俣諏訪神社の由緒

諏訪神社<加須市諏訪一-九(下三俣字正蓮)>
往古、利根川は羽生の川俣より南流、加須市内に入って川幅を広げた。当地の名は鬼島・中島・明智島の州が流れを三つに分けていたことによるという。
縁起によると、正平一〇年、行脚の僧教蔵上人が三俣の船人から鬼島に怪物が配駅し衆人を悩ますという話を聞き、一人で島に渡り七日七夜称名念仏を唱えたところ、夜中に一人の女性が現れて十念を乞い、上人が十念を授けるとたちまち百丈の白竜に変じ、見る間に姿を消した。よって白竜の首のあった所に龍蔵寺を建て雌の銀杏を植え、尾の止まった所に下諏訪社(弁財天ともいう)を勧請、雄の銀杏を植えた。 正徳四年大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて上社を勧請し、下社に倣い神像を奉納し、摂社として家内和合を念じ屋船命を勧請して主夜神社と号し、更に天明二年琴平・秋葉・榛名合殿社を祀るという。
明治五年に村社となり、同四〇年には字深沼の伊奈利社、字中島の白山社を本殿内に合祀し、祭神を建御名木命・事代主命・字迦之御魂命・菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命の六柱とする。(「埼玉の神社」より)

「加須市の神社・寺院」による三俣諏訪神社の由緒

当神社は、布教途中にあった教蔵上人が、鬼ヶ島に棲息する大白龍を念仏の功徳により得度した後、白龍の尾が止った地に銀杏を植え、次いで文和四年(一三五五)に、利根川(現会の川)堤防祈願のために当神社を勧請して社殿を造営したと伝えられている。『風土記』によれば三俣村の鎮守で、明治維新の際廃寺となった光徳寺の持ちとされている。
明治五年(一八七二)、神仏分離に伴う社格の制度化によって村社に列し、同四十年四月二十七日には、上地林八畝四歩の境内編入が許可されている。同年十一月二十二日には、字深沼の無格社伊奈利神社、及び字中野島の同白山社を合祀している。下って大正八年(一九一九)九月五日には、神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。(「加須市の神社・寺院」より)


三俣諏訪神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
  • 「加須市の神社・寺院」