上高柳諏訪社。諏訪大社を勧請して創祀
上高柳諏訪社の概要
上高柳諏訪社は、加須市上高柳にある諏訪社です。上高柳諏訪社の創建年代等は不詳ながら、村内に鎮守がないことを憂えた村民が協議の上、諏訪大社を勧請して創祀したと伝えられ、正保年間(1645-1648)に上下高柳村に分村した上高柳村の鎮守とされていました。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治21年八幡社を合祀、明治40年には地内の諸社を合祀しています。
社号 | 諏訪社 |
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祭神 | 武御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 八幡社、天神2祠、千方大明神、大六天、庚申 |
祭日 | 夏祭7月27日 |
住所 | 加須市上高柳52 |
備考 | - |
上高柳諏訪社の由緒
上高柳諏訪社の創建年代等は不詳ながら、村内に鎮守がないことを憂えた村民が協議の上、諏訪大社を勧請して創祀したと伝えられ、正保年間(1645-1648)に上下高柳村に分村した上高柳村の鎮守とされていました。明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治21年八幡社を合祀、明治40年には地内の諸社を合祀しています。
新編武蔵風土記稿による上高柳諏訪社の由緒
(上高柳村)
諏訪社
村の鎮守なり
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八幡社
以上宝幢寺の持
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天神三島合社
地蔵院持(新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による上高柳諏訪社の由緒
諏訪社<騎西町上高柳五二(上高柳字舟橋)>
利根川水系から取水された用水が、西北より南東へと数多く流れる上高柳の地は、元は下高柳(現加須市)と一村で高柳村と称し、正保のころに二村に分かれた。
社記によると、昔、村内に鎮守がないのを憂えた村民が一同協議の上、信濃国諏訪より農耕の守護神として諏訪大神を分霊し、鎮守としたのが創立であるという。
現存する棟札によると、文久二年舟橋・新田の氏子が中心となり社殿を再建、翌年七月に遷座祭が執行されている。現在の本殿はこの時のもので、一間社流造りである。内陣には猪にまたがる諏訪神像(三八センチメートル)を安置する。
明治初めの神仏分離までは村内真言宗稲荷山愛染院宝幢寺を別当としていたが、明治六年に村社となり祭神も武御名方命と定めた。同二一年、字八幡の八幡社が経済的に立ち行かないことを理由に合祀したのを皮切りに、明治四〇年、字柳下の三島社、字山王の山王社、字大六天の大六天社の三社を合祀した。しかし、柳下の三島社はいつのころか元地に戻り新しい社殿が造られ、柳下の人々によって九月彼岸中日ころに祭りが行われている。(「埼玉の神社」より)
境内掲示による上高柳諏訪社の由緒
諏訪神社
当社の創建は、昔、鎮守が無いのを憂えた村人が、信州諏訪大社の分霊を祀ったことによるという。現社殿は文久二年(一八六二)の再建。主祭神は武御名方命で、農耕の守護神として崇敬されている。
特殊な行事として、七月二十七日の祭礼には”鎌どっかえ”がある。これは、各家が前の年に神社から頂いた鎌(割箸の先に「諏訪神社」と書いた経木を付けたもの)を持ち寄り新しい鎌と取り替える、というものである。
鎌は農業のシンボル。作物の豊穣を祈った。更に窯で草を刈ることから皮膚病の瘡(くさ・かさ)を刈り取るとして無病息災にも霊験あたらかという。(加須市教育委員会掲示より)
上高柳諏訪社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)