東安山保寧寺。騎西城主松平康重が南雄和尚に帰依
保寧寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の保寧寺は、東安山と号します。保寧寺は、鎌倉建長寺21世玉山徳旋佛覺禅師を請待して元徳2年(1330)に開山、徳川家康の関東入国後に騎西城主となった松平康重は南雄和尚に帰依したことから、寺領の寄進を受けて南雄和尚が中興したといいます。寛永19年(1642)には幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。当寺の阿弥陀如来及両脇侍像は、国重要文化財に指定されています。
山号 | 東安山 |
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院号 | - |
寺号 | 保寧寺 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
住所 | 加須市日出安1286 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
保寧寺の縁起
保寧寺は、鎌倉建長寺21世玉山徳旋佛覺禅師を請待して元徳2年(1330)に開山、徳川家康の関東入国後に騎西城主となった松平康重は南雄和尚に帰依したことから、寺領の寄進を受けて南雄和尚が中興したといいます。寛永19年(1642)には幕府より寺領10石の御朱印状を受領していました。
新編武蔵風土記稿による保寧寺の縁起
(日出安村)
保寧寺
禅宗臨済派、山城國妙心寺末、在安山と號す、もとは鎌倉建長寺の末なりしとぞ、開山佛覺禅師は、建武元年十月十一日寂せり、此僧は鎌倉建長寺中回春庵を開きし人にて、是を請待して開山とせしならんと云、後慶長中住僧南雄がとき、今の末となる、南雄は元和九年十一月九日寂す、寺領十石は寛永十九年賜へり、本尊彌陀を安ず、
鐘樓。寶暦十年の鐘をかく、
寺寶。九條袈裟一。これは南雄東照宮の御子、かね姫君より賜はりしものと云、されど此姫君の事、御系圖には見えず、此袈裟蜀江錦など云て、世に有難きものゝよしいへど、さにはあらず、蝦夷錦やうのものなり、(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による保寧寺の縁起
当寺は東安山と号し、本尊に釋迦如来を奉安する。元徳二年(一三三〇)玉山徳旋によって禅寺として開山されたという。
天正十九年(一五九一)には、時の騎西城主松平康重から田畑一町歩の寄進を受けている。これは当寺の中興開山である南雄和尚に帰依してのことで、後に歴代徳川将軍から寺領十石の御朱印を賜っている。
当寺には、宗慶(運慶の兄弟弟子)作の建久七年(一一九六)九月二八日銘のある、木像阿弥陀如来及両脇侍像(国指定重要文化財)が奉安されている。定印を結ぶ阿弥陀如来坐像を中尊とし、右に勢至菩薩像左に観音菩薩像を配する。材はヒノキで、割矧造りである。胎内には「平氏女」「藤原弘□」との施主名が記され、藤原某は児玉党(武蔵七党の一つ)の四方田弘綱をあてる説がある。
かつては「子授け阿弥陀」とも呼ばれ、堂内の小さな阿弥陀仏を借り、これを拝むと子が授かるという信仰があった。
これらの仏像は後世の修復も見られるが、良好な状態で今日まで連綿と伝えられ、慶派仏師(鎌倉時代初頭)の作例を知る上で大変貴重なものとなっている。
なお、当寺周辺からは、鎌倉期の布目瓦や蔵骨器、鎌倉末から戦国末期にかけての多量の板碑が出土しており、歴史の古さを物語っている。(加須市教育委員会掲示より)
保寧寺所蔵の文化財
- 木像阿弥陀如来及両脇侍像(国指定重要文化財)
- 騎西城主松平康重位牌
- 亀姫(徳川家康息女)より拝領の九條袈裟
保寧寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿