観音寺。立生学校開校地、忍領三十三所
観音寺の概要
真言宗智山派寺院の観音寺は、霊照山無量院と号します。観音寺は、法印良範(元亀3年1572年寂)が開山となり天文13年(1544)(或いは天正18年)創建したといいます。明治6年には立生学校が当寺本堂で開校していました。忍領三十三所3番です。
山号 | 霊照山 |
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院号 | 無量院 |
寺号 | 観音寺 |
本尊 | 五大尊像 |
住所 | 加須市串作162 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 忍領三十三所3番 |
観音寺の縁起
観音寺は、法印良範(元亀3年1572年寂)が開山となり天文13年(1544)(或いは天正18年)創建したといいます。明治6年には立生学校が当寺本堂で開校していました。
新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
(串作村)観音寺
新義真言宗、正能村龍花院末、霊照山と號す、本尊釈迦を安ず、開山浄帝は寛文四年十月十五日示寂す。(新編武蔵風土記稿より)
「加須市の神社・寺院」による観音寺の縁起
当寺の創建は、天文十三年(一五四四)とも同十八年とも伝えられている。開山は法印良範といい、元亀三年(一五七二)五月十七日入寂している。
本末の関係については正能村(現騎西町)の龍花院の末寺に属していた。
万延元年(一八六〇)二月十六日深夜、本堂西側の杉林より出火した火災により本堂、庫裏をはじめとして諸堂宇、什物を焼失した。翌二年一月には、同村内の油屋の建物を移築して仮本堂とした。現在の本堂、観音堂は当寺第二十世法印日昌代に新築されたもので、同師は中興開山となっている。
明治五年の学制頒布の際は、真名板村(現行田市)、下新郷村(現羽生市)、串作村を連合して一学校区域とした、立生学校が明治六年(一八七三)二月十五日、観音寺を仮用校舎として開校している(その後「明道学校」と改称する。)。(「加須市の神社・寺院」より)
観音寺所蔵の文化財
- 阿弥陀如来立像
阿弥陀如来立像
真言宗霊照山観音寺本尊は木造寄木造阿弥陀如来の立像で、像高七十七センチで鎌倉時代中期の作と推定される。
光背は舟形渦巻模様となっていて、口唇の水平線が背後の襟より上位で顎と襟とがやや同一様に位置している。
衣文が金漆箔で、ことに載金文で実に美れいであり、技工の粋を尽くしている。(加須市教育委員会掲示より)
観音寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「加須市の神社・寺院」