龍花院。加須市正能にある真言宗智山派寺院

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龍花院。源頼朝が寺を修造、真言宗の関東二十七法談所

龍花院の概要

真言宗智山派寺院の龍花院は、伊豆山法音寺と号します。龍花院は、源頼朝が寺の修造を命じて、日鑁上人(伝・源頼朝の甥)が開山、源頼朝は衣幕を寄進したと伝えられ、後鳥羽院から「伊豆山 龍華院 法音寺」の勅號を与えられたといいます。真言宗の関東二十七法談所の一つとされ、近郷に数多くの末寺を擁し、慶安元年(1648)には幕府より寺領20石の御朱印状を受領していました。忍領三十三所番外札所です。

龍花院
龍花院の概要
山号 伊豆山
院号 龍花院
寺号 法音寺
本尊 不動明王像
住所 加須市正能116
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



龍花院の縁起

龍花院は、源頼朝が寺の修造を命じて、日鑁上人(伝・源頼朝の甥)が開山、源頼朝は衣幕を寄進したと伝えられ、後鳥羽院から「伊豆山 龍華院 法音寺」の勅號を与えられたといいます。真言宗の関東二十七法談所の一つとされ、近郷に数多くの末寺を擁し、慶安元年(1648)には幕府より寺領20石の御朱印状を受領していました。

新編武蔵風土記稿による龍花院の縁起

(正能村)
龍花院
新義眞言宗、山城國醍醐光臺院末、伊豆山法音寺と號す、寺傳を閲するに當寺の往古、右大将賴朝修造を命じ、衣黒(キヌグロ)の幕を寄附し、且寄附の文書もあり、又後後鳥羽院より伊豆山法音寺と勅號ありしと、是等の品々蔵せしが、謙信城責の時當寺を初め近き邊りを焼拂ひしに、此寺寶も烏有となりしと、住僧のことには大同二年の開闢と云もの疑ふべし、大同は弘法大師の時代なれば、かゝる遠境へ小寺を開くべき理なし、其後鎌倉時代に至り、僧日鑁開復せり此僧賴朝の甥にて、當代まで七世に及ぶといへど、年暦も齟齬すれば覺束なし、されど關東法談所二十七ヶ寺の其一にて慶安元年寺領二十石を賜へり、本尊不動、運慶の作、長三尺、外に春日の作、十一面觀音、弘法の作、辨天、此餘多聞天聖天等を安ぜり、多聞天は用明天皇二年七月守屋追討の御願のため、聖徳太子の彫刻し給所にして、鎌倉時代修造の時、納めしと云り、元久元年春鎌倉尼将軍守護仏と書付ある由云ど其實を知らず、聖天は銅像・木像二體ありて、木像は弘法大師の作なり、
經堂。文殊を安ず、
鐘樓。延寶二年の鐘をかく、
薬師堂。聖徳太子の彫る像を安ず、
久伊豆社、八幡社。共に境内の鎮守なり(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による龍花院の縁起

鎌倉時代の創建で、開山は日鑁上人。本尊に不動明王を奉安する。
源頼朝が寺の修造を命じ、幕を寄進したという。また、後鳥羽天皇から「伊豆山 龍華院 法音寺」の号を賜ったとも伝えられ、古くから当地方の有力な寺院であった。
江戸時代”関東二十七法談所”の一つとされ、多くの門弟が仏教の勉学に励んだ。また末寺二十八か寺を有し、御朱印二十石を賜った。現在、これらに関する文書が多数保存されている。
なお、当寺の西側は”古宮跡”と呼ばれ、かつて玉敷神社の鎮座地であった。(加須市教育委員会掲示より)


龍花院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿