神光山金剛院。近隣に末寺27ヶ寺を擁していた寺院
金剛院の概要
真言宗智山派寺院の金剛院は、神光山大日寺と号します。金剛院の創建年代等は不詳ながら、弘源和尚が住職を務めていた文禄5年(159)に日出安から当地へ移転したといいます。慶安5年(1650)には幕府より寺領25石の御朱印状を受領、近隣に末寺27ヶ寺を擁していた本寺格の寺院でした。境内の画像板碑は、かつて騎西城の大手門近く「石阿弥陀耕地」にあったもので、加須市有形文化財に指定されています。
山号 | 神光山 |
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院号 | 金剛院 |
寺号 | 大日寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 加須市根古屋485 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
金剛院の縁起
金剛院の創建年代等は不詳ながら、弘源和尚が住職を務めていた文禄5年(159)に日出安から当地へ移転したといいます。慶安5年(1650)には幕府より寺領25石の御朱印状を受領、近隣に末寺27ヶ寺を擁していた本寺格の寺院でした。
新編武蔵風土記稿による金剛院の縁起
(根古屋村)
金剛院
新義眞言宗にて、山城國醍醐報恩院の末山なり、神光山大日寺と號せり、慶安年中寺領二十五石の御朱印を賜はれり、當寺は私市城築營の頃、日出安村より引移せりとされど當寺に所蔵せる古器蓋の裏に、文禄五年住僧私源の時引移せしとあるは、城築營後のことならん、弘源は騎西町場寶乗院の開山にして、慶長年中寂せり、
大日堂
太神宮
鐘樓。明和四年鑄造の鐘なり(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による金剛院の縁起
当寺は神光山 大日寺と号し、本尊に不動明王を奉安する。文禄五年(一五九六)、弘源和尚が住職の頃に日出安から移転したという(現駒形神社南西付近)。
江戸初期の「武州騎西之絵図」によれば、寺の周囲には堀が巡らされ、寺内への出入りには橋を用いている様子が窺える。末寺二十七ヶ寺を有する大寺院で、御朱印三十石(うち五石は駒形神社分)を賜った。
また、境内にある宝篋印塔の積み替え工事の際、塔身部から泥塔(清浄な泥土を塔形の中に入れて型抜きしたもの)が発見されている。
なお、境内の発掘調査では溝が四条見つかり、江戸時代の陶磁器や漆椀などが出土している。(加須市教育委員会掲示より)
金剛院所蔵の文化財
- 金剛院画像板碑(市指定有形文化財)
金剛院画像板碑
板碑は石製の供養塔で、鎌倉から室町時代にかけて造られた。この地方では、荒川上流(長瀞付近)で産出する緑泥片岩を材料としていることから”青石塔婆”とも呼ばれている。
この板碑は高さ三・一四メートル、幅一・二九メートルで、画像板碑では日本最大といわれる。これは、阿弥陀如来が観音・勢至菩薩を伴い、極楽浄土へ迎える姿を描いたものである。
江戸初期の「武州騎西之絵図」によれば、もとは騎西城の大手門近くにあったらしく、今でもこの付近を”石阿弥陀耕地”と呼んでいる。
なお、この板碑の下部には大きな貫通孔があるが、ここに遺骨や経典を納めたとする説や、倒伏を防ぐために横木を通したとする説などがある。(加須市教育委員会掲示より)
金剛院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿