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本宿天神社。北本市本宿の神社

本宿天神社の概要

本宿天神社は、北本市本宿にある神社です。本宿天神社は、元宿村の名主岡野家が、元宿村の鎮守・岡野家の氏神として寛文2年(1662)に創建、明治6年村社に列格したといいます。明治24年(1891)に奉納された算額は、北本市有形民俗文化財に指定されています。

本宿天神社
本宿天神社の概要
社号 天神社
祭神 菅原道眞公
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 北本市本宿6-64
備考 -



本宿天神社の由緒

本宿天神社は、元宿村の名主岡野家が、元宿村の鎮守・岡野家の氏神として寛文2年(1662)に創建、明治6年村社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による本宿天神社の由緒

(本宿村)
天神社
村の鎮守なり、多聞寺持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による本宿天神社の由緒

天神社<北本市本宿二-八(北本宿字徳道)>
北本宿は、慶長七年(一六〇二)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村(明治二十二年に北本宿と改称)は、宿場の中心地に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。
元宿村の名主は、「機屋」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で二五代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文二年(一六六二)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祀ったのが、当社の始まりであると伝えられる。したがって、当社は元宿村の鎮守であると同時に岡野家の氏神でもあったため、この岡野家やその分家では邸内に氏神を祀っていない。
江戸時代には、当社の東南に隣接する多聞寺の持ちとして、同寺の管理を受けていた。『風土記稿』元宿村の項に「天神社 多聞寺持」とあるのはそうした状況を示すものである。この多聞寺は、多聞律師が文永年間(一二六四-七五)に創立したと伝えられる真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天である。神仏分離の後は同寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。太平洋戦争後、社殿の老朽化が目立ってきたため、中丸小学校の奉安殿を移築して本殿とした。本殿の御扉に菊の紋が入っているのはそのためで、拝殿も昭和四十三年に再建された。(「埼玉の神社」より)


いいお墓

本宿天神社の由緒

  • 算額(北本市指定有形民俗文化財)

算額

算額は和算家が問題と解法を記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことである。これは難問が解けたことへの感謝や勉学向上の祈念、また和算における成果発表などのために掲げられた。
和算は江戸時代中期以降に関孝和(一六四三~一七〇八)らによって発展した日本独自の数学を意味し「算学」と呼ばれ、明治時代中頃になってもこれを学ぶ社中(塾)が各地にあった。
当天神社に所在する算額は横一七八cm、縦八八cmという大型のもので、明治二十四年(一八九一)に奉納されている。内容は杉の柾目板に十二問が記され、そのすべてが、組合わされた図形から答えを導き出す平面幾何の問題である。
算額掲示の発起者は本宿在住の清水和三郎及び林専蔵であり、これに名を連ねる解答者は本宿八名、ほかに北中丸二名、桶川の小針領家一名となっている。当地における算学研究が盛んであったことを証明する貴重な資料である。(北本市教育委員会掲示(北本市教育委員会掲示より)

本宿天神社の周辺図

参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)