壽命院。深井六郎次郎景孝中興
壽命院の概要
真言宗智山派寺院の壽命院は、殿林山金蔵寺と号します。壽命院は、圓俊(文明年間1469-1487寂)が持明院と号して創建、深井六郎次郎景孝(金蔵院性水理道居士)が中興、徳川家康の関東入国に際し、天正年間寺領10石の御朱印状を受領、御朱印状受領の頃に壽命院と改めたといいます。近郷に末寺・門徒寺を擁する本寺格の寺院でした。足立坂東観音霊場13番です。
山号 | 殿林山 |
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院号 | 壽命院 |
寺号 | 金蔵寺 |
住所 | 北本市深井4-55 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
壽命院の縁起
壽命院は、圓俊(文明年間1469-1487寂)が持明院と号して創建、深井六郎次郎景孝(金蔵院性水理道居士)が中興、徳川家康の関東入国に際し、天正年間寺領10石の御朱印状を受領、御朱印状受領の頃に壽命院と改めたといいます。近郷に末寺・門徒寺を擁する本寺格の寺院でした。
新編武蔵風土記稿による壽命院の縁起
(上深井村・下深井村)壽命院
新義真言宗、京都智積院末、殿林山金蔵寺と號す、古は持明院と云ひしが、天正年中御朱印の寺領を附せられし頃より、今の院號に改めしと云、開山圓俊文明年中示寂、其後深井六郎次郎景孝中興せりと云、墓所に石碑あり、金蔵院性水理道居士天文二年四月三日とえれり、又其子對馬守景吉の碑を其傍にたつ、瑞信院嚴洞道居士慶長十六年二月十一日卒せり、此餘代々の碑をたつ、是前にいへる如く、宮地の百姓勘右衛門が先祖なれば、其條下を照し見るべし、本尊大日を安ぜり
觀音堂。十一面観音を安ず、
鐘樓。近年鑄造の鐘なり、
聖天社(新編武蔵風土記稿より)
壽命院所蔵の文化財
- 寿命院板石塔婆(北本市指定歴史資料)
寿命院板石塔婆
板石塔婆は板碑とも呼ばれ、鎌倉時代中期から戦国時代に造立された石造の供養塔で、埼玉県の中世を象徴する文化財である。
1.建長三年銘板石塔婆
建長三年(一二五一)の紀年銘を有し、主尊に梵字のキリーク(阿弥陀如来)を刻む。主尊は天蓋と蓮座で荘厳され、天蓋は板碑に刻まれた事例としては全国で最古である。残念ながら下半部を欠損するが、デザインと彫刻技術に優れ、大変優美な作例である。
2.建治二年銘板石塔婆
建治二年(一二六七)の紀年銘を有し、完形で遺存状況は良好である。主尊に梵字のキリークを配し、下半部には「諸行無常是生滅法 生滅滅己寂滅為楽」という涅槃経の偈を二行で刻む。
この他、寿命院には天文二四年(一五五五)銘の申待の板石塔婆が二基あり、二基を組とする双碑である。ともに梵字のバク(釈迦如来)を主尊とし、マン(文殊菩薩)とアン(普賢菩薩)を脇侍とする。下半には俗名を含む交名を多数刻んでおり、本市における中世末期の民間信仰の存在を伝える資料として貴重である。(北本市教育委員会掲示より)
壽命院の周辺図
参考資料
- 「新編武蔵風土記稿」