金鑚神社。名神大社、児玉郷総鎮守
金鑚神社の概要
金鑚神社は、児玉郡神川町にある神社で、古代より鎮座し名神大社として厚く尊崇を受けてきた神社です。金鑚神社は、日本武尊が、火打金を御霊代として山中に納め、天照皇太神と素戔嗚尊を祀ったのが創始したと伝えられ、貞観4年(862)8月には従五位下に神階を授与され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳にも名神大社と記載される式内社です。源義家(1039-1106)が奥州の際には当社で戦勝祈願、また武蔵七党の児玉党から厚く崇敬され、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られ、各所に金鑚神社が建立されています。武蔵国二宮(総社大国魂神社では五宮としている)として尊崇を受け、明治維新後の明治6年には県社に列格、明治18年官幣中社に列しています。
また、境内の多宝塔は阿保郷丹荘の豪族(児玉党)阿保弾正全隆が天文3年(1534)に寄進したもので、国重要文化財に指定されています。
社号 | 金鑚神社 |
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祭神 | 天照大神・素戔嗚尊 |
相殿 | 日本武尊 |
境内社 | 氷川社、稲荷社、熱田社、熱田社、当国式内四十四座、蚕影山神社 |
祭日 | - |
住所 | 児玉郡神川町二ノ宮750 |
備考 | 摂社:元森神社 |
金鑚神社の由緒
金鑚神社は、日本武尊が、火打金を御霊代として山中に納め、天照皇太神と素戔嗚尊を祀ったのが創始したと伝えられます。御嶽山から鉄が採鉱された伝承や、金屋・阿那志などの金属加工を行っていた人々にかかわる地名、社号金鑚(金佐奈・金砂)から、金属の産出に関わる信仰が窺え、古墳時代より栄えた当地周辺を支える基盤と推定できます。貞観4年(862)6月には正六位上に、8月には従五位下に神階を授与され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳にも名神大社と記載される式内社です。源義家(1039-1106)が奥州の際には当社で戦勝祈願、また武蔵七党の児玉党から厚く崇敬され、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られ、各所に金鑚神社が建立されています。武蔵国二宮(総社大国魂神社では五宮としている)として尊崇を受け、明治維新後の明治6年には県社に列格、明治18年官幣中社に列しています。なお、当社はかつては元森神社地に鎮座していたといい、さらにその以前には宮内若宮神社の地に鎮座していたと伝えられ、次第に鎮座地がご神体(御室山・御嶽山)に近づいてきたようです。
新編武蔵風土記稿による金鑚神社の由緒
(金鑚村)
金鑚神社
神體金山彦命或は素戔嗚尊とも云、二十二村の惣鎮守なり、【延喜式】神名帳に武蔵國兒玉郡金佐奈神社名神大と載す、【三代實録】に貞観四年六月四日武蔵國正六位上金佐奈神列於官社、同年八月六日授武蔵國正六位上金佐奈神從五位下と見ゆ、古は村東今の見先森の兩社ある所に建し由、今の社地も松杉繁茂したれば、轉遷も古きことなるべし、往古の社傳は元禄十一年回禄にかかり烏有となり、永禄年中の古鰐口を別當寺に蔵す、銘文に金鑚■五宮と彫れり、其故は詳ならず、其圖上に載す
末社。白山、諏訪、天神
駒繋石
旗掛杉
義家橋。此三名何れも社地にあり、往古八幡太郎義家欧州征伐のとき、當社へ参籠ありて、駒を繋ぎ旗を掛橋を渡せしものと云、今橋は石にて作り、長九尺許、
(中略)
多寶塔。二間半四面にて、本尊多寶釋迦を安ず、此塔は御嶽の山つづきに建り、阿保全隆の造立と云、阿保氏のことは隣村渡瀬村の條に辨ぜり、塔の眞柱正面に天文三年午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆本願大工等の文字見え、其餘は漫滅して讀べからず、又後背に寛保三亥年十一月八日、金鑚山四十世學玄山亮幽の字見え、其他讀得ず、是再造の時記せしものなりと云、其他は讀得。 (新編武蔵風土記稿より)
埼玉県掲示による金鑚神社の由緒
金鑚神社は、旧官幣中社で、延喜式神名帳にも名を残す古社である。むかしは武蔵国二の宮とも称された。地名の二の宮はこれによっている。
社伝によれば、日本武尊が東征伐の帰途、伊勢神宮で伯母倭姫命より賜った火打金を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素戔嗚命を祀ったのが始まりとされている。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が厚く、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代には徳川幕府から御朱印三〇石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。
境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説の遺跡”駒つなぎ石””旗掛松””義家橋”などがある。
なお、この神社にはとくに本殿をおかず、背後の山全体を御神体としている。旧官・国幣社の中で本殿がないのはここのほか、全国でも大神神社(奈良県)と諏訪神社(長野県)だけである。(神川町掲示より)
「埼玉の神社」による金鑚神社の由緒
金鑚神社
当社は、標高約三〇〇メートルの御室山(御室ケ嶽・神の手山)を神体山とする。ここは、大和国の大神神社と同じく、本殿がなく、古代の神奈備山の祭祀を伝えている。『武蔵二宮金鑚神社誌』には、「うしろの御室ケ嶽には木柵をめぐらして七反六畝を神体林として本殿扱ひとし、そのうしろに二丁一反八畝の杉林を風致林としてゐるが、神体林の大部分は櫟楢を主林として、その下部に樫・杉・椿を有して、武蔵野の原生林としての様相を保ってゐる」としている。また、御室山背後には、標高三四三メートルの御嶽山がある。
祭神は、現在、天照皇太神・素戔嗚尊・日本武尊である。武蔵二ノ宮として崇敬を集めている。
旧鎮座地は、現在当社鎮座地の北東四〇〇メートルにある摂社元森神社の境内地と伝え、ここから御室山を拝したと伝える。
社蔵の「金鑚神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東国遠征の折に倭姫命より授けられた草薙剣とともに携えてきた火打金を御霊代として山中に納め、天照皇太神と素戔嗚尊を祀ったのが創始と伝える。しかし、『風土記稿』は祭神について、「神体金山彦尊或は素戔嗚尊とも云、二十二村の惣鎮守なり」とある。金山彦尊は、金・鉱山の神で、当社は採鉱・製鉄等にかかわる氏族により祀られたと考えられる。
社名の「金佐奈(金鑚)」は、金砂を表し、御室山背後にある御嶽山から鉄が採鉱された伝承もある。また、当社周辺には金屋・阿那志などの金属加工を行っていた人々にかかわる地名がみられ、当地で採鉱・製鉄にかかわった氏族については、渡来系氏族と考えられている。
『延喜式』神名帳には、児玉郡一座として「金佐奈神社大名神」とある。神階については、『三代実録』貞観四年(八六二)六月四日の条に正六位上、同年八月六日の条には従五位下を授けられる。
南北朝期に編まれた『神道集』武蔵六所明神(大国魂神社)事に「五宮ヲハ金鑚大明神ト申、本地弥勒菩薩是也」とある。また『風土記稿』には、永禄十三年(一五六九)十二月吉日銘をもつ社蔵鰐口に「金鑚口五宮鰐口也」との刻銘が載る。更に、日光の輪王寺所蔵の応永三年(一三九六)十月十八日の年紀をもつ大般若経巻四八一の奥書には、当社一帯を支配した安保氏「於武州児玉郡金鑚宮令書写之」とあり、安保氏以下五人の僧がこの経文を「金鑚宮談所一乗坊」で書写している。
ちなみに、安保氏は当社の崇敬厚く、天文三年(一五三四)、「安保全隆」は、境内に多宝塔(国指定重要文化財)を建立している。塔の高さは、約一八メートル、間口・奥行は四・五五メートルである。
この安保氏の居城は、御嶽城といわれる山城で、御室山背後にある御嶽山中にあり、戦国期は、武蔵国・上野国の間にある拠点として重要視されている。このため、天文二十一年(一五五二)には、関東管領上杉憲政に属した当域は、北条氏康の攻撃を受け、山麓の金鑚山諸堂宇は焼き払われ、ついに、安保泰広・泰忠は降伏をした。永禄十三年(一五七〇)には安保民は北条方に属し、御嶽城において上野国から侵入して来た武田軍と激戦となったが、力尽きて敗れ、同城は落誠した。そして上野国三ツ山城(藤岡市)の長井政実が御嶽城主となり、当社を保護している。
中世から近世にかけて、当社の別当は天台宗の大光普照寺が務めた。同寺は、金鑚山一乗院、あるいは金鑚寺などと呼ばれた。寺伝によれば、創立は聖徳太子、欽明天皇の勅願所。開基は円仁で、天台密教の創始「元三大師良源」が来寺し、自らの像を刻んで奉安したと伝える。
明治初年、神仏分離により祭祀・社領・神宝等を大光普照寺から分ける。特に祭祀は、詮量房が復職して児玉大学(後の立川円平)と名乗り、祠官となる。同二年には、立川野守があとを継いでいる。
同六年に県社となり、幡羅郡下奈良村の東条直記が祠官となった。同十一年には、黒川真頼の娘婿の堀越弥三郎が祠官となって社格昇格運動を行った。同氏は後に、三峰神社祠官、氷川神社宮司を兼務している。同十五年、埼玉県令吉田清英宛に、官幣社加列願が出され、同十七年には、神明造りの拝殿改造願いを出した。これは、明治十八年に認められることになり官幣中社となった。
同二十三年、多宝塔が神社へ移管となり、翌年、塩谷・飯倉・宮内の氏子の支援のもと、児玉町より鬼石に至る新道が掘削された。境内地も上地返却により、一万六千坪余りとなった。
同三十五年、伊東忠太の設計による正面五間半、奥行三間五尺の樛製拝殿と祝詞舎、中門が竣工している。
当社の六〇〇メートルほど東北には、当社の旧地とされる地に、摂社元森神社がある。十月十九日の秋尽祭には、地元の氏子が参列し、「金鑚のお山は良いお山、あら美しい、あら木の生い茂る山」と一同で唱えて神体山を拝する山ほめの行事がある。
さらに当社は、この元森神社の所に鎮座する以前は大字宮内の若宮神社のある場所に鎮座していたとも伝えられる。ちなみに、この宮内では、その昔、金鎖明神と若宮明神の姉妹神が争い、金鑚明神が椿の枝で「アマ、アマ」と若宮明神を打ち負かしたと伝説があり、若宮明神を追いかけた村境の坂道を阿麻田坂と称し、これによって宮内には椿が生えないという。(「埼玉の神社」より)
金鑚神社所蔵の文化財
- 金鑚神社多宝塔(国重要文化財)
金鑚神社多宝塔
金鑚神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の塔身)に腰屋根がつけられた二重の塔姿である。
天文三年(一五三四)に阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」の墨書銘がある。
この塔は、建立年代の明確な本県有数の古建築であるとともに、阿保氏に係わる遺構であることも注目される。塔姿建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。(神川町掲示より)
金鑚神社の周辺図