下児玉金讃神社。児玉郡美里町下児玉の神社
下児玉金讃神社の概要
下児玉金讃神社は、児玉郡美里町下児玉にある金讃神社です。金讃神社の創建年代は不詳ですが、「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられます。明治5年に村社に列格、明治40年に字西山の稲荷神社、字熊谷の雷電神社、字東山の山之神社、字殿谷戸の菅原神社(及びその末社疱瘡神社・天手長男神社)が遷座したといいます。
社号 | 金讃神社 |
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祭神 | 天照皇大神、素盞嗚尊、日本武尊 |
相殿 | - |
境内社 | 蚕影社、稲荷社、諏訪社、雷電社、雷電社 |
祭日 | 例祭日10月19日 |
住所 | 児玉郡美里町下児玉322 |
備考 | 旧下児玉村の鎮守、旧村社 |
下児玉金讃神社の由緒
金讃神社の創建年代は不詳ですが、「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることを記しており、創建年代は江戸時代以前に遡ると考えられます。明治5年に村社に列格、明治40年に字西山の稲荷神社、字熊谷の雷電神社、字東山の山之神社、字殿谷戸の菅原神社(及びその末社疱瘡神社・天手長男神社)が遷座したといいます。
新編武蔵風土記稿による下児玉金讃神社の由緒
(下児玉村)金鑚神社
村の鎮守なり。楊林寺持(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による下児玉金讃神社の由緒
下児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(1390)の藤原春治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老太勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鍵阿寺が所蔵する永正10年(1513)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かっては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。「児玉郡誌」には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む東蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄2年(1689)9月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
一方、「風土記稿」下児玉村の項に 「金銭神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、雷電社・稲荷社・諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治5年に村社となり、同13年には社殿を改築し、更に昭和3年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
下児玉金讃神社の周辺図