常福寺。美里町指定文化財の百体観音、児玉三十三霊場13番
常福寺の概要
真言宗智山派寺院の常福寺は、広木山龍華院池之坊常福寺と号します。天平年間(729-749)に領主檜前舎人石前が開基、空興上人が開山となり弘記山龍華院として創建したと伝えられます。空興上人はみか神社北側に現存する摩訶池を築いたと伝えられています。戦国時代には武田・北条の合戦により堂宇が焼失したものの、北条氏邦により再建、寺領も安堵されたといい、慶安2年には徳川幕府より寺領10石の御朱印状を拝領、多くの塔頭・末寺を擁していました。境内の観音堂には百体観音が安置され、美里町指定文化財となっている他、児玉三十三霊場13番霊場となっています。
山号 | 広木山 |
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院号 | 龍華院 |
寺号 | 池之坊常福寺 |
住所 | 児玉郡美里町広木1375 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 不動明王像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 児玉三十三霊場13番霊場 |
常福寺の縁起
常福寺は、天平年間(729-749)に領主檜前舎人石前が開基、空興上人が開山となり弘記山龍華院として創建したと伝えられます。空興上人はみか神社北側に現存する摩訶池を築いたと伝えられています。戦国時代には武田・北条の合戦により堂宇が焼失したものの、北条氏邦により再建、寺領も安堵されたといい、慶安2年には徳川幕府より寺領10石の御朱印状を拝領、多くの塔頭・末寺を擁していました。
埼玉県掲示による常福寺の縁起
常福寺
当寺は、広木山龍華院池之坊常福寺といい、真言宗智山派に属している。本尊には不動明王を安置し、児玉三十三霊場第13番納経所にもなっている。
創立は天平年間(729-749)といわれ、領主檜前舎人石前がここに一寺を建立し、弘記山龍華院と称したと伝えられ、開山は空興上人である。上人は、この地方の水利の便が悪く農民が困っているのをみて、摩訶般若の秘法を修して面積四町余歩の池を築かせた。この池は「摩訶の池」と呼ばれて、今でも灌漑に利用されている。
天正7年(1579)には武田・北条の合戦により堂宇が焼失したが、後に鉢形城主北条氏邦により再建された。現本堂は宝暦3年(1753)に再建されたもので、昭和57年には大修理が施された。
境内の観音堂には、百体観音が安置されているが、なかでも阿弥陀如来は、平安時代藤原期の定朝様式を伝える美しい仏像として、美里町指定文化財となっている。(埼玉県掲示より)
新編武蔵風土記稿による常福寺の縁起
常福寺
新義真言宗、山城国醍醐報恩院末。廣木山龍花院池の坊と号す。寺領10石は慶安2年8月24日賜へり。本尊不動、開山空興中興元暁とのみ傳へて寂年詳ならず。天正9年北条氏邦より出せし文書を蔵す。(北条氏邦文書省略)
弁天社、金比羅社、天神社、以上境内鎮守とす。
観音堂、百観音を安ず。
鐘楼、元禄3年の鋳造なり。
塔頭。
寶山寺。福姓坊。何れも本尊は薬師なり。正保年中地頭猪飼氏の造立といへど、其詳なることを知らず。其後廃して未だ再興に及ばず。(新編武蔵風土記稿より)
常福寺所蔵の文化財
- 阿弥陀如来像(美里町指定文化財)
阿弥陀如来像
常福寺は、千二百年以前弘紀山竜華院といい、うしろの寺山にあった。
真言宗として開山されたのは空興上人による。空興上人は空海時代の傑僧で、摩訶池を作り、二十二町歩の水田を開いたといわれている。
この仏像は、上品下生の印を結ぶ等身大の阿弥陀様で、製作年月日は不詳であるが、貞和6年(1350)と慶長8年(1603)に修理され、約800年前の作と推定されている。修理により背面の背板、右手肘より先、左手首、装先等が後補のものに代り、面部も削り直され大きく改変されている。しかし、小粒の螺髪を刻み付けた丸い面相、平行状の浅い衣褶を彫りつけた薄手の衲衣の表現などに定朝様の特色がはっきり認められ、当初は美事な作品であったことが偲ばれる。(美里町教育委員会掲示より)
常福寺の周辺図