安養寺八幡神社。古墳上に鎮座、八幡神社の算額
安養寺八幡神社の概要
安養寺八幡神社は、鴻巣市安養寺にある神社です。安養寺八幡神社の創建年代等は不詳ながら、天福二年(一二三四)と記載された書が「武州忍保安養寺」で書写されていることから、鎌倉時代には当地に「安養寺」という寺院があったことがわかり、当社もその頃には祀られていたものと思われます。古墳上に鎮座、江戸期には安養寺村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格しています。また大正2年に奉納された算額は、市有形文化財に指定されています。
社号 | 八幡神社 |
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祭神 | 誉田別命、息長足姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 日枝神社 |
祭日 | 例祭9月14日、日枝神社祭7月20日 |
住所 | 鴻巣市安養寺126 |
備考 | 旧安養寺村鎮守 |
安養寺八幡神社の由緒
安養寺八幡神社の創建年代等は不詳ながら、天福二年(一二三四)と記載された書が「武州忍保安養寺」で書写されていることから、鎌倉時代には当地に「安養寺」という寺院があったことがわかり、当社もその頃には祀られていたものと思われます。古墳上に鎮座、江戸期には安養寺村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格しています。
新編武蔵風土記稿による安養寺八幡神社の由緒
(安養寺村)
八幡社
村の鎮守なり、良覺院持、
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良覺院
當山修験、山城國醍醐三寶院配下なり、愛宕山と號す。(新編武蔵風土記稿より)
埼玉県神社庁「埼玉の神社」による安養寺八幡神社の由緒
八幡神社<鴻巣市安養寺一二六(安養寺字白幡)>
安養寺の地名はかつて当地にあった寺の名に由来するという。神奈川県立金沢文庫蔵の「求聞持秘口決」の奥書には、天福二年(一二三四)二月十二日「武州忍保安養寺」で書写したとある。
『埼玉県伝説集成』によれば、安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川と挟んで東西に祀られていて、昔この両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白旗を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに敗れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった。一方、市ノ縄の八幡様には松の木が亭々とそびえ茂った。安養寺の八幡様の前の田を「白幡田圃」と呼ぶのは、この戦いにちなんでいると伝えられている。
当社の創建年代は明らかでないが、社蔵の『神社財産登録台帳』には「木像壱躰 奉竒進八幡御尊躰元禄十丁丑年(一六九七)十一月廾八日」との記載が見える。また『風土記稿』安養寺村の項には「八幡社 村の鎮守なり、良覚院持」とある。別当の良覚院は愛宕山と号する本山派修験で、開山の仲海が寛永六年(一六二九)に寂したという。神仏分離で廃寺となった模様で、その寺名さえも忘れられている。
明治六年に村社となった。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
安養寺八幡神社所蔵の文化財
- 八幡神社の算額
八幡神社の算額
算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
八幡神社の算額は、大正四年に安養寺村の中村新蔵が奉納した。
和算は、中国の影響を受けて我が国独特の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合いその解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。(鴻巣市教育委員会掲示より)
安養寺八幡神社の周辺図