榎戸伊奈利神社。鴻巣市榎戸の神社
榎戸伊奈利神社の概要
榎戸伊奈利神社は鴻巣市榎戸にある神社です。榎戸伊奈利神社の創建年代等は不詳ながら、榎戸村の草分け横田家は寛永11年(1634)に会津から当地へ来て土着、横田家の墓も当社隣(宝性寺境内)にあることから、横田家が土着後、宝性寺と共に当社を創建したものと思われます。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格していました。
社号 | 伊奈利神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | 弁天社、天神社 |
祭日 | 春祭り3月中旬、芋っ葉灯籠7月17・18日 |
住所 | 鴻巣市榎戸1-1-27 |
備考 | - |
榎戸伊奈利神社の由緒
榎戸伊奈利神社の創建年代等は不詳ながら、榎戸村の草分け横田家は寛永11年(1634)に会津から当地へ来て土着、横田家の墓も当社隣(宝性寺境内)にあることから、横田家が土着後、宝性寺と共に当社を創建したものと思われます。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による榎戸伊奈利神社の由緒
(榎戸村)
寶性寺
新義眞言宗、箕田村龍珠院門徒、稲荷山普門院と號す、本尊十一面觀音を安ず、
稲荷社。村内の鎮守とす、
辨財天社
天満宮 (新編武蔵風土記稿より)
「埼玉の神社」による榎戸伊奈利神社の由緒
伊奈利神社<吹上町榎戸一-一(榎戸字砂場耕地)>
町の北西部に位置する榎戸は、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。当社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また、境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、かつては民家は全くなく、楢の林、が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であった。
この榎戸で最も力を持っていた家が、「榎戸の殿様」と称されていた横田家で、かつては当社の祭事の経費の半分は同家が負担していた。横田家は、一三代ほど続いた後、昭和二十年代半ばに絶えてしまったが、当社の参道の脇には同家の墓所があり、町指定文化財になっている。ちなみに『風土記稿』榎戸村の項にも、同家は「旧家半十郎」として載り、「降奥国会津郡」から寛永十一年(一六三四)に当地に来て土着したと記されている。
当社の由緒については、『風土記稿』に「稲荷社 村内の鎮守とす、弁財天社 天満宮」と載る程度で、創建についての詳しい事情は知られていない。しかし、右記のような状況から考えると、社殿の建立や境内の整備についても、横田家が大きくかかわっていたと思われる。また、『風土記稿』には別当についての記載がないが、立地から見て、当社に隣接していた宝性寺が祭祀に関与していた可能性が高い。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)
榎戸伊奈利神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「埼玉の神社」