宝性寺。鴻巣市榎戸にある真言宗豊山派寺院
宝性寺の概要
真言宗豊山派寺院の宝性寺は、稲荷山普門院と号します。宝性寺の創建年代等は不詳ながら、榎戸村の草分け横田家は寛永11年(1634)に会津から当地へ来て土着、横田家の墓も当寺にあることから、横田家が土着後、榎戸稲荷神社と共に当寺を創建したものと思われます。明治維新後廃寺となり、旧本寺の龍珠院が管理しています。
山号 | 稲荷山 |
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院号 | 普門院 |
寺号 | 宝性寺 |
本尊 | 十一面観音像 |
住所 | 鴻巣市榎戸1-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝性寺の縁起
宝性寺の創建年代等は不詳ながら、榎戸村の草分け横田家は寛永11年(1634)に会津から当地へ来て土着、横田家の墓も当寺にあることから、横田家が土着後、榎戸稲荷神社と共に当寺を創建したものと思われます。明治維新後廃寺となり、旧本寺の龍珠院が管理しています。
新編武蔵風土記稿による宝性寺の縁起
(榎戸村)
寶性寺
新義眞言宗、箕田村龍珠院門徒、稲荷山普門院と號す、本尊十一面觀音を安ず、
稲荷社。村内の鎮守とす、
辨財天社
天満宮(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による宝性寺の縁起
宝性寺
宝性寺は、前砂の真言宗宝蔵寺並びに吹上の持宝院とともに、明治六年(一八七三)三月二十三日廃寺申付られ(江原)、檀信徒はほとんど吹上東曜寺の檀徒となり、現在宝性寺跡に本尊を安置する庵一宇が新築され、檀徒の熱意によって維持されている。
『新記』に「新義真言宗箕田村龍珠院門徒、稲荷山普門院ト号ス、本尊十一面観音ヲ按ス」とあり、明治九年(一八七六)成立の、『郡村誌』には、既に廃寺後の記録のため古跡として、「宝性寺廃跡、堅三十五間、横二十二間六分、面積六百七十二坪、村の北にあり、新義真言宗本郡竜昌寺の末派なりしが、明治四年廃寺となり、方今、民有地及墓所となる。」とだけ記されている。寺の開基、成立、開山等については全くふれていないのは宝性寺の開基、存在を実註するに足る確かな資料のないことによるものである。明治四年廃寺は誤りである。
墓地の悉皆臨調査によると、氏村家墓地には、江戸初期の承応二年(一六五三)並びに同三年の二基、ほか他家墓地にも寛文年間(一六六一~七三)、延宝年間(一六七一~八一)の石塔が点在している。このことは稲荷山のあの地に、既にこのころ村民の墓地群が形成されてきて、菩提寺草創への気運が醸成されていったものと思われる。
開基は、寛永十年(一六三三)以降、元禄十一年(一六九八)まで榎戸村、吹上村の知行主(領主)であった小笠原郎右衛門信政であり、寺の創建は、正穂四年(一七一四)とされている。開山第一世等は詳かでない。
最近、墓地の改葬が実施されたが、向かって右側の一画は、かつてこの地で眼科医を開業しておった横田家の広大な墓地で、小笠原三郎右衛門ゆかりの者もここに葬られている。
本尊は、木造、寄木造、漆箔、彩色、玉眼、総高五八センチ、像高三六センチ、截金菱形波模様(大笑面欠く)の十一面観音の立像で、江戸後期作となっている。(「吹上町史」より)
宝性寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」