笠原久伊豆社。鴻巣市笠原の神社

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笠原久伊豆社。延喜式内社足立神社の論社

笠原久伊豆社の概要

笠原久伊豆社は、鴻巣市笠原にある神社です。笠原久伊豆社の創建年代等は不詳ながら、安閑天皇元年(534)の武蔵国造の乱で争った笠原直使主の本貫地笠原郷の地と推定されることから、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される「足立神社」ではないかともいわれます(論社)。ただ、社号の「久伊豆社」は平安時代末期に埼玉郡域を本貫地とした野与党や私市党の共通の祖神とされることから、野与党や私市党により勧請されたのではないかとされます。江戸期には笠原村の鎮守として祀られ、明治維新後の明治6年村社に列格、明治42年大字笠原字弐貫野の菅原神社と伊奈利社、字永井戸の熊野社、字前新田の浅間社を合祀しています。

笠原久伊豆社
笠原久伊豆社の概要
社号 久伊豆社
祭神 大己貴命
相殿 -
境内社 八雲神社、弁財天、八幡宮、稲荷大神
祭日 例祭10月14日、夏祭り7月14日
住所 鴻巣市笠原1755
備考 -



笠原久伊豆社の由緒

笠原久伊豆社の創建年代等は不詳ながら、安閑天皇元年(534)の武蔵国造の乱で争った笠原直使主の本貫地笠原郷の地と推定されることから、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される「足立神社」ではないかともいわれます(論社)。ただ、社号の「久伊豆社」は平安時代末期に埼玉郡域を本貫地とした野与党や私市党の共通の祖神とされることから、野与党や私市党により勧請されたのではないかとされます。江戸期には笠原村の鎮守として祀られ、明治維新後の明治6年村社に列格、明治42年大字笠原字弐貫野の菅原神社と伊奈利社、字永井戸の熊野社、字前新田の浅間社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による笠原久伊豆社の由緒

(笠原村)
久伊豆社
村の鎮守なり、東光寺持、社人高橋右門は、江戸淺草田原町神事舞太夫田村八太夫配下なり、
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淺間社
正福寺持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による笠原久伊豆社の由緒

久伊豆社<鴻巣市笠原一七五五(笠原字前新田)>
『日本書紀』安閑天皇元年閏十二月条には、笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位をめぐって争ったという記事がある。笠原直使主は『和名抄』記載の埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される。当地は、この笠原郷の遺称地とされ、古い開発をうかがわせる。また、『吾妻鏡』建久六年(一一九六)三月十日条には源頼朝の奈良東大寺供養に従った随兵のうちに笠原六郎の名が見え、更に正治二年(一二〇〇)二月二十六日条には、源頼朝の鎌倉鶴岡八幡宮参詣に従った供奉人として笠原十郎左衛門尉親景の名が見える。この両名は、笠原を名字の地とする武士と思われ、平安末期から中世にかけて南・北埼玉郡に勢力を振るった武士団である野与党に属すると推測される。久伊豆社は一般に野与党や私市党の共通の祖神とされており、当社もそのような中で奉斎された社の一つであろう。
当社は『風土記稿』笠原村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、東光寺持、社人高橋右門は、江戸浅草田原町神事舞太夫田村八太夫配下なり」と記されている。また、当社東隣の真言宗東光寺は慶安二年(一六四九)に阿弥陀堂領として朱印地一一石余を与えられたという。
明治六年に村社となり、同四十二年には大字笠原字弐貫野の菅原神社と伊奈利社、字永井戸の熊野社、字前新田の浅間社の計四社の無格社を合祀した。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)


笠原久伊豆社の周辺図