伝源経基館跡。鴻巣市大間にある旧跡・名所

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

伝源経基館跡。鴻巣市大間にある旧跡・名所

伝源経基館跡の概要

伝源経基館跡は、鴻巣市大間にある名所旧跡です。伝源経基館跡は、東西約95m、南北約85mの方形の館跡で、東西北を低湿地に面し、東南北に土塁・堀を残しています。西面は土塁・堀がないものの、急勾配をつけて防御としたのではないかといいます。館主ははっきり判明していないものの、平将門の乱(天慶3年940年に平定)の直前天慶元年(938)に武蔵介として赴任した源経基と推定され、「将門記」などでも、武蔵介経基と足立郡郡司判官武蔵武芝とが比企郡(荒川対岸)で会合の際、武蔵武芝が突然武蔵介経基の館を取り囲んだとの記事が残されており、武蔵介経基が比企郡・足立郡周辺に居館を置いていたことが知られています。源経基は、清和天皇の孫で・貞純親王の第六子にあたることから六孫王と呼ばれ、後には源頼朝などを輩出、また新田氏や足利氏など、清和源氏が関東地方に土着する契機となっています。

伝源経基館跡
伝源経基館跡の概要
旧跡・名所名 伝源経基館跡
みどころ 県指定文化財
入場時間 -
入場料 無料
住所 鴻巣市大間942
備考 -




伝源経基館跡の縁起

伝源経基館跡は、東西約95m、南北約85mの方形の館跡で、東西北を低湿地に面し、東南北に土塁・堀を残しています。西面は土塁・堀がないものの、急勾配をつけて防御としたのではないかといいます。館主ははっきり判明していないものの、平将門の乱(天慶3年940年に平定)の直前天慶元年(938)に武蔵介として赴任した源経基と推定され、「将門記」などでも、武蔵介経基と足立郡郡司判官武蔵武芝とが比企郡(荒川対岸)で会合の際、武蔵武芝が突然武蔵介経基の館を取り囲んだとの記事が残されており、武蔵介経基が比企郡・足立郡周辺に居館を置いていたことが知られています。源経基は、清和天皇の孫で・貞純親王の第六子にあたることから六孫王と呼ばれ、後には源頼朝などを輩出、また新田氏や足利氏など、清和源氏が関東地方に土着する契機となっています。

境内掲示による伝源経基館跡について

伝源経基館跡
源経基は、清和天皇の皇子貞純親王の子で、親王の第六子にあたることから六孫王と称した。弓馬の道に長じ、武勇をもって知られた。源姓を賜って源朝臣を称したが、武蔵介となって関東に下り、この地に館を構えたと伝えられています。
城山とも浅間山とも呼ばれるこの館跡は、現在は大部分が山林となっている。館の主要部分は、東西約九五メートル、南北約八五メートルの方形で、西側の低湿地に面する部分を除く三方に土塁と堀が良好な状態で残っている。堀の幅は、東辺で約一〇メートル、堀底から土塁頂部まで約三メートルである。土塁が築かれていない西辺は、郭内の地表面と低湿地との高低差が約四・五メートルあり、低湿地に向かう斜面の法面の傾斜を急にすることで防備したのであろう。
昭和六十二年に鴻巣市教育委員会によって北西部分が発掘調査され、断面の形が箱薬研となる堀が二四メートルにわたって検出された。堀は西方に向かうにしたがって底の深さを増しながら低湿地に続いており、西辺部に土塁がなくても館は防御に十分な高さがあったことが明らかになった。また、堀はもともと空堀であったと思われ、ローム層を堀り抜いて下の砂層に達するまで堀り込まれている。堀からは中世の陶磁器片が出土したのみで、館の正確な建築年代は明らかにできなかった。
武蔵介経基の名は『将門記』や「貞信公記」等に載っており、その行状は広く知られている。また、源氏の一門でもっとも栄えたのは、この源経基を祖とする清和源氏で、頼光・義家・義朝・頼朝等はこの系統である。
経基が武蔵介としてこの地に赴任したのは天慶元年(九三八)で、同時に興世王も武蔵権守として赴任している。赴任早々にこの二人と足立郡司武蔵武芝との間で騒乱が起こり、平将門が調停に介入している。この事件は、その後起こった平将門の乱の契機となった。また、この頃には土着武士及び郡司たちの実力が中央政府の力の及ばぬ程に兄弟になっていたことを示すものでもあった。
平将門の乱は、天慶三年(九四〇)に藤原秀郷・平貞盛らの奮戦によって平定された。この乱の後に経基は武蔵守となり、その子の満仲も武蔵権守任ぜられている。この二代の間に清和源氏は武蔵国へ勢力を浸透させたが、経基の時代の勢力は坂東八平氏や嵯峨源氏などの遠く及ばなかった。伝えられるとおりこの館跡が経基のものだったならば、当時の清和源氏の勢力の実態をこの規模が反映しているといえよう(埼玉県史参照)。(埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会掲示示より)

新編武蔵風土記稿による伝源経基館跡について

(大間村)舊蹟
城山
村の西北にあり、東西北の三方泥田にて要害の地なり、今もから堀の跡殘りたれば、壘など構へし地なること疑ひなかるべし、廣さは四段許あれど、昔は猶廣き地なりしも知べからず、相傳へて扇谷の長臣箕田氏の城跡なりとも、又武蔵守經基の壘蹟ともいへど、もとより證とすべきことなし、今按に将門記等によるに、承平八年武蔵介經基足立郡郡司判官武蔵武芝と争論和議のことによりて、比企郡狭服山に會合の時、武芝の後陣故なくして、經基の營所を圍む云々と載たれば、若くは彼營所と云もの當地なりしも知べからず、ことに箕田村にも經基が陣所と云所あれば、とにかくこの邊を經基が居住ありしこと論なかるべし、されどこはいとあかりし代の事なれば、其堀かまへの今に殘るべきのゆへなし、又扇谷の長臣箕田氏と云は、弾正綱秀がことなるべけれど、彼は三田氏にして箕田にあらず、思ふに箕田三田唱への同じきまゝに後世事を好むもの々牽強していひ起したる説ばるべし、殊に彼綱秀は多磨郡に住せしことは諸記録に見えたれば、當所に城壘あるべきの理なきをや、(新編武蔵風土記稿より)


伝源経基館跡の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」