宝積院西善寺。鴻巣市鎌塚にある真言宗智山派寺院
宝積院の概要
真言宗智山派寺院の宝積院は、瑠璃光山西善寺と号します。宝積院の創建年代等は不詳ながら、盛照大和尚が天正7年(1579)に中興したといいます。境内薬師堂の薬師如来像は、成田下総守氏長の旧家臣石川隼人の守護仏だったもので、鴻巣市有形文化財に指定されています。
山号 | 瑠璃光山 |
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院号 | 宝積院 |
寺号 | 西善寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 鴻巣市鎌塚219 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝積院の縁起
宝積院の創建年代等は不詳ながら、盛照大和尚が天正7年(1579)に中興したといいます。境内薬師堂の薬師如来像は、成田下総守氏長の旧家臣石川隼人の守護仏だったもので、鴻巣市有形文化財に指定されています。
新編武蔵風土記稿による宝積院の縁起
寶積院
新義真言宗、大井村(熊谷市太井)福聚院末。瑠璃光山阿弥陀寺と号す。本尊弥陀。(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による宝積院の縁起
宝積院
新義真言宗智山派太井村(現熊谷市)福聚院末で、瑠璃山阿弥陀院と号している。開基、開山は不詳である。下忍村寺院明細帳(西福寺)によると、天正七年(一五七九)、盛照大和尚が中興したと記録されていることから草創はそれ以前の古さをもつことになろう。
盛照大和尚につぐ盛澄法印の代、慶長十三年(一六〇八)伊奈備前守忠次検地の際、境内除地一町歩を賜ったと記されている。
文政九年(一八二六)石川治部左衛門が中心となり、檀徒協議を遂げ村内有志より寄付金を受けて、再建したという堂宇のうち、本堂は昭和二十三年改築となり、庫裡も昭和五十二年にりっぱに改築され面目を一新した。
本尊は、来迎形の阿弥陀三尊で、弥陀像は、木造、寄木造、漆箔、玉眼、完好、総高七九センチ、像高四五センチ、脇侍は、観音、勢至菩薩で、江戸中期作。
境内の薬師堂は、慶長五年(一六〇〇)に石川治部左衛門が、時の住職盛照とはかり堂宇を創建したもので、本尊の薬師如来は、忍城主成田下総守氏長の家臣であった石川隼人(石川治部左衛門の祖)の守護仏であったが、成田氏滅亡後は宝積院に納められていたものである。薬師像は、行基菩薩の作とされているが、室町末期から江戸初期の作品と推定され、吹上町指定文化財となっている。木造、寄木造、漆箔、玉眼、通肩、完好、像高二三センチとなっている。
宝積院境内の板碑について、明治初期の県寺院明細帳には、宝治、文保、嘉暦、至徳など一二〇〇~一三〇〇年代のものがあったと記載されているが、昭和二十六年刊行の『下忍村史』には、文保二年(一三一八)、至徳二年(一三八五)の二基だけの記録となり、今回の調査では破片の一部を確認しただけとなってしまった。寺の創建とのかかわり合いは断定できないまでも、この周辺に古碑の存在することは、板碑を建立して供養を行うだけの経済カというか勢力をもった人々の生活があったことは確かである。貴重な資料の消滅というほかない。
明治八年十月には下忍学枝分舎として、この寺に鎌塚学校が開校されている。(「吹上町史」より)
宝積院所蔵の文化財
- 薬師三尊像(鴻巣市指定有形文化財)
宝積院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」