自昌寺。成田下総守長泰が開基
自昌寺の概要
曹洞宗寺院の自昌寺は、医王山観音院と号します。自昌寺は、秋厳宗闇長老が天文6年(1537)医王山観音院と号して創建、成田下総守長泰が愛妾(慶寿院永屋白昌大禅定尼)の菩提を弔うために堂宇を建立、寺号を自昌寺として開基、その後南叟玄寿和尚(寛永19年1642年寂)が元和2年(1616)に開山したといいます。
山号 | 医王山 |
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院号 | 観音院 |
寺号 | 自昌寺 |
本尊 | 聖観音像 |
住所 | 鴻巣市鎌塚1109 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
自昌寺の縁起
自昌寺は、秋厳宗闇長老が天文6年(1537)医王山観音院と号して創建、成田下総守長泰が愛妾(慶寿院永屋白昌大禅定尼)の菩提を弔うために堂宇を建立、寺号を自昌寺として開基、その後南叟玄寿和尚(寛永19年1642年寂)が元和2年(1616)に開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による自昌寺の縁起
禅宗曹洞派、比企郡市ノ川村永福寺末、医王山と号す。開山南叟、寛永19年2月3日寂す。本尊聖観音、運慶の作。
薬師堂(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による自昌寺の縁起
自昌寺
宝蔵院の西方二〇〇メートルほど、鎌塚町内の西のはずれに位置する自昌寺は、禅宗曹洞派、比企郡市の川村(現東松山市)永福寺の末派で、医王山観音院と号している。
天文六年(一五三七)、秋厳宗闇長老がこの地に当寺を創建して、医王山観音院と号した。戦国時代の武将で忍城主であった成田下総守長泰が、愛妾の菩提を弔うため殿宇を建立、愛妾の法名慶寿院永屋白昌大禅定尼から、自昌をとって自昌寺と改め開基としたという。続いて高峰宗徳和尚が住持、元和二年(一六一六)市の川永福寺の開山十代の法孫、南叟玄寿和尚を請い、自昌寺の開山住持とした。開山第一世南叟和尚はこれより二六年後の寛永十九年二月三日遷化した。
慶長十三年(一六〇八)、伊奈備前守忠次検地の際、境内除地一町歩を賜給されたが、明治四年(一八七一)上地(江戸時代社寺の所領でこの年に政府に返納した土地)して、境内地だけとなった。
氏姓は詳かでないが、往古薬師如来を信仰する行人があって、その功験は四方に聞こえ、老幼男女が祈請すると百病が必ず治ったといわれ、祈りを請う人々で市をなす景況であった、が、行人はあとつぎのないまま死亡し、一代で絶えてしまった。住民はその後感ずるところあって、彼の信仰の本尊を自昌寺の境内に移し安置したと伝えられている。これが薬師堂で、天正年中医王山の号があるから、その創立はかなり古いものと見られる。白昌寺本堂向かって左手の地蔵尊辺にあったというが、大正末期のころ取りこわされ薬師如来像は、それ以来自昌寺本堂に安置されている。鎌塚の「はかんど行人塚」は、自昌寺薬師堂行人の入定地と伝えられている。
自昌寺の本尊は、院号の一示すように聖観音の坐像で、木造、寄木造、彩色、玉眼、厨子に納められ、像高二八・五センチ、江戸時代作。薬師如来像は古く室町時代作とされ、木造、寄木造、彩色、玉眼、厨子入り、像高二四・五センチとなっている。(「吹上町史」より)
自昌寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」