宝持寺。鴻巣市箕田にある曹洞宗寺院

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宝持寺。渡辺綱が創建、彩の国武州路十二支霊場寅年霊場

宝持寺の概要

曹洞宗寺院の宝持寺は、曹傳山美源院と号します。創建年代は不詳ですが、渡辺綱が祖父(箕田源氏の祖源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に創建したと伝えられます。その後、東松山市永福寺の第二代住職壑芸玄巨大和尚により永正年間(1504-20年)に曹洞宗寺院として中興、寛永19年(1642)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を拝領しました。平成15年に本堂を一新しています。彩の国武州路十二支霊場の寅年霊場です。

宝持寺
宝持寺の概要
山号 曹傳山
院号 美源院
寺号 宝持寺
本尊 釈迦牟尼仏
住所 鴻巣市箕田2034
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宝持寺の縁起

宝持寺の創建年代は不詳ですが、渡辺綱が祖父(箕田源氏の祖源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に創建したと伝えられます。その後、東松山市永福寺の第二代住職壑芸玄巨大和尚により永正年間(1504-20年)に曹洞宗寺院として中興、寛永19年(1642)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を拝領しました。平成15年に本堂を一新しています。

新編武蔵風土記稿による宝持寺の縁起

宝持寺
禅宗曹洞派、比企郡市の川村永福寺の末。曹傳山美源院と号す。寺領5石の御朱印は慶安年中賜はれり。開山壑芸玄巨、享禄年中当寺を草創して、天文元年8月示寂す。開基の位牌二基あり。寶持院金峯道剛大禅門曹寶珠室大禅尼とあり、寺号もこの法号にとりて名付しこと知らる。寶持院は俗称を小宮山弾正と称す。曹寶院は其妻女なるべし。今按るに成田家分限帳に小宮山弾正介忠孝永楽二百貫文を所務せしよしを載す。即ち此人なるべし。又郡中赤山領戸塚村に込山弾正が住し城跡と云ものあり。是も同人なるべしと。又渡邊源五綱が位牌あり。美源院大総英綱大禅門萬寿元甲子年3月朔日と記す。綱は当寺最初の開基なれば、ここに置るなどいへど、固より拠とすべきことなければおぼつかなし。
什寶
太刀一振。下野の住包秀の作。源五綱が所持のものにて、遠裔渡邊重兵衛高が寄進せしものといへど、高と云ものの事蹟詳ならざれば考ふるに由なし。
鐘楼。延宝5年鋳造の鐘をかく。
白山社。
弁天社。
秋葉社。
稲荷社。
愛宕社。
第六天社。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による宝持寺の縁起

当山は、今より一千年前に渡辺綱が、祖父(箕田源氏の祖源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に建立したと伝えられています。
渡辺綱は源頼光に仕えた四天王随一と云われ、大江山の酒呑童子退治や京の一条戻橋では、付近に出没する鬼婆の腕を切り落とした事で有名な武将で、渡辺氏を名乗り嵯峨源氏一統の総領となりその名を残した人物です。
永正年間(1504-20年)に東松山市「永福寺」の第二代住職壑芸玄巨大和尚によって曹洞宗寺院として再興され徳川幕府より5石の御朱印を賜り伽藍も立派で勢力を誇っておりましたが、相次ぐ火災のため昔日の面影を失ってしまいました。
従来の本堂が大正11年に古材を再利用して改築されたもので老朽化も進み床の軋みや天井からの雨漏り等の憂うべき現状でありました。
このため、改築造立を発願し、平成12年の檀信徒総会において決定を見、また平成14年は曹洞宗の開祖道元禅師様七百五十年の大遠忌にあたり、高祖様の御報恩の為にこの事業が実施されました。
この「とき」に出会った因縁を積極的に受け止めていただき、宝持寺檀家の総力を挙げて立派な本堂を建立することができました。謹んで御先代・御先祖様に御報告申上げ、また私たちの子孫に誇りをもって引き継いでいくため、ここに記念として石碑に刻むことと致しました。(境内新本堂建立記念碑より)


宝持寺所蔵の文化財

  • 箕田碑(鴻巣市指定金石文)

箕田碑

箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
源経基(六孫王清和源氏)は文部両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県史跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり指月の撰文、維碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものだと思われる。(鴻巣市教育委員会掲示より)


宝持寺の周辺図