久保寺。地元領主の久保吉右衛門開基
久保寺の概要
真言宗豊山派寺院の久保寺は、光明山自在院と号します。地元の領主久保吉右衛門が開基となり寛永年間(1624-1643)に龍性寺として創建したといいます。当所小字内谷の地蔵屋敷に創建したものの荒川増水の被害に遭うことから当地へ移転、明治6年から大正3年まで大間学校として使用されていました。
山号 | 光明山 |
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院号 | 自在院 |
寺号 | 久保寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 鴻巣市大間2-1-19 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
久保寺の縁起
久保寺は、地元の領主久保吉右衛門が開基となり寛永年間(1624-1643)に龍性寺として創建したといいます。当所小字内谷の地蔵屋敷に創建したものの荒川増水の被害に遭うことから当地へ移転、明治6年から大正3年まで大間学校として使用されていました。
新編武蔵風土記稿による久保寺の縁起
久保寺
新義真言宗、箕田村龍珠院末、光明山自在院と号す。開山僧円祐、寂年を傳へず。開基は久保吉右衛門と云。貞享元年6月23日卒す。本尊は不動を安置す。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による久保寺の縁起
当山は真言宗豊山派光明山自在院久保寺と称し、創立は寛永年間(1624-1643)開基は久保吉右衛門、開山は智全または尊清といわれております。その昔、久保寺は、龍性寺と称し、小字内谷の地蔵屋敷と称する所に有ったが、荒川増水のたびに被害に遭う為小字原寺屋敷に移し建立したが、更に幾たびかの被害に遭い、見る影もなき状態になったため、福島半左衛門貞正が再建を心掛け領主久保吉右衛門の許可を受け、寛永年間、現在地観音山の寄附を頂き建立した。寺号は領主の姓とする許可を受け、光明山自在院久保寺と称したと言われ今日に至っております。その間明治6年4月17日創立から大正3年10月まで大間学校(大間村、北中野村、登戸村)として教育の場としても使われました。また明治20年1月15日には火災に遭い、住職及び檀信徒の努力により明治22年に再建した。最近では昭和49年境内拡張の為、土地購入、昭和50年8月阿弥陀如来大修理、本堂一部、阿弥陀堂内部修理、昭和54年1月墓地拡張工事、昭和57年1月土留ブロック工事(128m)、昭和57年1月から昭和60年12月まで4年間にわたり久保寺最大の墓地整備を行った。昭和60年7月有縁無縁塔建立、阿弥陀如来立像建立、昭和61年7月境内整備(参道大門屋根工事、南側ブロック工事、寺標石建立)工事等を完成してまいりました。又、旧本堂は、明治20年3月(1887年)に高尾村(北本市)の新井家の旧宅を購入し本堂として建立したものであり完成から約160年を経て現在に至っており、古材であった事を考え合わせると約200年経つものと推定される。この様に歴史ある本堂ではあるが長年の歳月には勝てず老朽も甚だしく数年前から檀信徒の皆様に本堂建立をお願いし、総代会・評議員会等で協議を重ねてまいりましたが、ここに機が熟し、宿願達成の方針を打ち出して進めてまいりました。ここに檀信徒各位の絶大なるご協力、格別のお力添えを賜り立派に完成いたしましたことは、檀信徒各位の暖かいご信仰の賜物と深く感謝致します。この慶事に際し当山の隆昌と檀信徒各家の益々のご繁栄を祈念致します。(境内久保寺本堂建設記念碑より)
久保寺の周辺図