宝養寺。三洋玄貞が開創、永勝寺第2世然室重天和尚が開山
宝養寺の概要
曹洞宗寺院の宝養寺は、清水山と号します。宝養寺は、三洋玄貞が文禄3年(1594)に開創、永勝寺第2世然室重天和尚が寛永2年(1625)に開山したといいます。
山号 | 清水山 |
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院号 | - |
寺号 | 宝養寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 鴻巣市下忍4573 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝養寺の縁起
宝養寺は、三洋玄貞が文禄3年(1594)に開創、永勝寺第2世然室重天和尚が寛永2年(1625)に開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による宝養寺の縁起
(下忍村)
寶養寺
禅宗曹洞派、大井村永勝寺末、清水山と云、本尊釈迦、開山然室重天、寛永十五年六月二十五日化す、
観音堂(新編武蔵風土記稿より)
「吹上町史」による宝養寺の縁起
宝養寺
古墳上の墓地をもつこの寺は、下忍の角戸にあり、北新宿の曹洞宗永勝寺の末派で、清水山と号したが明治三年(一八七〇)現在の山号禅悦山に改めた。
文禄三年(一五九四)四月、三洋玄貞の開創で、寛永二年(一六二五)然室重天和尚が開山となっている。然室重天和尚は、本寺永勝寺の第二世で、宝養寺の第一世となり、寛永十五年(一六三八)六月二十五日入寂している。
寛保二年(一七四二)七月、徳岩坦道和尚が堂宇を再建、その後安政六年(一八五九)五月火災のため、堂宇記録一切焼失、本尊及び過古帳は搬出され境内外の観音堂に寓置し、三年間ここで寺務を扱った。明治四年(一八七一)住僧白明が私銭をもって庫裡を建築したが昭和四十二年(一九六七)十二月三十一日失火、山門を残して本堂庫裡本尊諸仏一切焼失した。同年十月寺及び檀信徒の熱意によって本堂庫裡の再建をみた。本堂前に置かれた大建築の礎石風の巨石は、明治の中ごろ砂山の大日堂跡と思われる場所で発見され、うち一個がここに運ばれたものといわれている。
本尊は、釈迦如来であるが、焼失以前のものは寛永十二年十二月十五日「宝養寺開山存虎之造也」とあったという。宝養寺第二世起雲存虎が事実上の開山であったことを物語るものである。現存の釈迦如来坐像は昭和四十三年安置のもので、木造、玉眼、漆箔、通肩、像高三六セシチとなっている。(「吹上町史」より)
宝養寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「吹上町史」