東越谷香取神社。越谷市東越谷の神社

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東越谷香取神社。盗難からの守護と五穀豊穣を願い香取神宮を勧請

東越谷香取神社の概要

東越谷香取神社は、越谷市東越谷にある香取神社です。東越谷香取神社の創建年代は不詳ですが、口碑によると、九人の武士が開墾を始めたが、農作物が次々に盗まれるので、盗難からの守護と五穀豊穣を願い、下総国一宮の香取神宮を勧請して創建したといいます。明治4年村社に列格していました。

東越谷香取神社
東越谷香取神社の概要
社号 香取神社
祭神 経津主大神
合祀 -
境内社 三社神社(秋葉社・白山社・熊野社)、琴平社、雷電社、古峯社、道祖社、八幡社
祭日 -
住所 越谷市東越谷1-15-13
備考 旧村社



東越谷香取神社の由緒

東越谷香取神社の創建年代は不詳ですが、口碑によると、九人の武士が開墾を始めたが、農作物が次々に盗まれるので、盗難からの守護と五穀豊穣を願い、下総国一宮の香取神宮を勧請して創建したといいます。明治4年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による東越谷香取神社の由緒

(小林村)
観音寺
無量山と號す、本尊十一面観音を安ず。
香取社(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による東越谷香取神社の由緒

祭神は経津主命である。今は区画整理が行われ当時の面影はないが、もとは東福寺の砂丘に連なる一画で、この元荒川を境に東は香取神、西は久伊豆神とわかれていた。
元荒川が越ヶ谷天嶽寺前から直道に疏削されたのは、寛永年間(一六二四〜四四)といわれている。
当神社の石段を昇った一段高い境内には、「吉川ふどう道、越ヶ谷岩槻道」と道しるべが付された文化十一年(一八一四)の文字庚申塔や、元禄二年(一六八九)の銘のある御手洗石などがある。神殿の傍らに改築記念碑が建てられているが、これには五百年前の文明年間(一四六九〜八七)小林村に九軒の百姓が定住して開発が進められ、享保年間(一七一六〜三六)には三十三戸を数えたなどと記されている。(埼玉県・越谷市掲示より)

「埼玉の神社」による東越谷香取神社の由緒

当社の鏡座する東越谷は、越谷市の中央、湾曲して流れる元荒川の東岸に位置する。元来は小林村と称していたが、明治十二年に東小林と改称した。更に、昭和四十六年、区画整理に伴う町名変更のため越ケ谷・花田・瓦曾根の各一部を編入して東越谷が成立した。
口碑によると、当地は九人の武士が開墾を始めたが、農作物が次々に盗まれるので、盗難からの守護と五穀豊穣を願い、下総国一宮の香取神宮を勧請して祀ったのが当社の始まりであるという。
江戸期において、小林村の鎮守は当社の南に隣接する神明社であった。一方、当社は『風土記稿』に「観音寺 無量山と号す、本尊十一面観音を安ず 香取社」と記され、観音寺の境内社として見え、元禄二年(一六八九)銘のある手水鉢にも当寺町名が刻まれている。この寺は現存せず、明治七年に廃寺となっている。氏子の観盥家は屋号を「観音寺」と称し、かつて当社の北一〇〇メートルの所に居住していたというので、この辺りがその跡地と思われる。ただし、元禄十年(一六九七)の検地帳には「鎮守香取社」とあり、七反余の除地を持っていた。
明治四年には、鎮守の神明社ではなく、当社が村社となっている。(「埼玉の神社」より)


東越谷香取神社の周辺図